
そういえば作中では「ヒョン」という言葉をそのまま使っています。
ヒョンが日本語に直しにくいんですよね。
みなさん御存じのとおり、「ヒョン」は男性が年上の男性に使う「お兄さん」という意味の言葉ですが、
そのまま日本語にするとちょっとニュアンスが違っちゃいますよね。
なんか「アニキ!」っていうと任侠ものっぽくなっちゃうし(笑)
なので、そのまま「ヒョン」と訳しています。
* * *
# 03
「どうしたんだよ。顔が完全に腐りきってるな。シウォンとケンカしたか?」
風がだんだん冷たくなってきたが暖かい日差しが射す朝。センターに到着し、会議室がある3階に行こうと階段を上っていたソンミンの肩をとんと叩きながらヒチョルが言ってきた。
ソンミンが横で結んだカバンの紐は、もうすぐカバンが床につきそうなくらいだらりと垂れさがり、肩の端にぶらぶらとぶら下がっている。髪は洗ったまま乾いていないようで、あちこち飛び跳ねている上に、毎日きらきら輝いているソンミンの瞳はどんよりと曇っていた。
ソンミンはヒチョルの言葉に首を横に振りながら、違うと言った。いっそシウォンとケンカをしたほうがまだましだった。シウォンのせいでこの廃人のような格好で歩き回っているのならどんなに良かっただろう。ソンミンはこれがシウォンのせいではないから余計に肩を落とした。
あの気に入らない人間のせいで、ソンミンは家に帰ってからもずっと、布団の中で泣いて怒って泣いて怒っての繰り返しだった。シウォンが何かあったのかと聞いてきても、その侮辱的な言葉を口にするのも腹が立った。シウォンがずっとソンミンのそばにいてくれたが、何もかもキム・ヨンウンのせいで怒りを鎮まらなかった。
ソンミンはヨンウンのせいで、今日はセノーカフェでカフェラテの香りを嗅ぐのはやめた。顔も見たくないあの男にまた出くわしてしまうかもしれないから、もうひとりでセノーカフェは行くのはやめると決心した。
今朝ずっとソンミンの気分をよくしてくれたシウォンが今はいないので、ソンミンはまるで生きる意欲を失った人のように茫然としていた。
「ケンカしてないとか言って、どう見てもケンカした後みたいな格好だぜ。トイレに行ってちょっと髪を直してから会議室に来いよ。わかったか?」
ソンミンがうなずくと、ヒチョルは鼻歌を歌いながらせかせかと3階の会議室に駆けあがっていった。ぼんやりと壁をつかんでいるうちに、やっとヒチョルの言葉がソンミンの頭に入ってきて消化された。髪がそんなにめちゃくちゃなのかと思って髪をごしごし撫でながら、階段を上りかけた足を1階のトイレに向けた。
トイレの鏡で自分の髪を見てみると、無様だった。若干長い後ろ髪はちゃんと肩についていたが、問題は後ろ髪よりも短い頭のてっぺんの髪の毛で、宇宙と交信でもするみたいにぴんと立っていた。この格好で家からセンターまで歩いてきたのかと思うと恥ずかしくなって、すぐに蛇口を回して手に水をつけた。
「どうしてこんなに跳ねるんだよぅ」
水をつけて直そうとしても、髪の毛はまたこっそりと跳ねあがろうとして、曖昧に浮きあがったヘアスタイルが余計に笑えた。無表情だったソンミンの顔がたちまち泣きそうになる。
これも全部あいつのせいだ――。
「髪くらい直してから来いよ。おまえは天下の”WHO”様だろ」
誰かが後ろからソンミンの髪の束を伸ばして、暖かな息を吹きかけた。鏡越しに見えたのはまさに縁起でもないあの男だった。ソンミンはヨンウンの息遣いに、首の後ろから寒気がした。すぐに振り返り、背中を壁につけて防御体制を取った。またどんな鋭い言葉で自分を傷つけようとするかわからない、危険な人間だ。
「な……何してるんですか」
「男が男子トイレに来て用を足すのがおかしいか?」
ソンミンが洗面台の前から退いた後、ヨンウンは何でもないように鏡を見ていた。
「い……いや、そうじゃなくて。僕に対して何をするんですかっていう意味で……」
「はっ」
ヨンウンは虚しい笑いを浮かべてソンミンを見た。ヨンウンは壁にくっついているソンミンに近づき、顔の横に片手をついた。タイルにヨンウンの手がついて鈍い音が響くと、ソンミンは驚いて身じろぎをした。カンインはソンミンよりも背が高く、見下ろしてくるその眼差しは脅迫的だった。大人しくしているところをわざわざ怒らせてしまったと思い、今さらソンミンは後悔した。突然優しくふるまってきた彼にただ驚いただけなのに、たちまちこんな怖い人間に戻るなんて――。
「俺がおまえに何をしたって言うんだ」
「い、いや……急に髪を……」
「それが? 俺がおまえの髪に触ったらだめなのか? 舞台が始まったら俺が隅から隅まで全部触るのに、その度に怖がってそんなふうに子猫みたいに壁にくっつくのか?」
そう言いながらだんだん顔が近づいてくると彼の脅威は増した。彼の言葉は正しかった。演劇にはキスシーンもあり、抱擁シーンも数えきれないほどあった。それくらいロミオとジュリエットが愛し合っているということだから、その場面を全部除けば演劇の半分以上がなくなってしまう。しかしこんなふうに近くにいるのは無理だった。近く感じられるヨンウンの呼吸に、ソンミンはぞっとして息が止まりそうだった。
「どうしてそんなに怯えているんだ? 取って食われるとでも思ってるのか?」
「……い、いえ」
「俺はおまえみたいにやる気のないやつには興味ないんだよ」
ヨンウンはソンミンの耳元に顔を近づけて、そっとソンミンの股間に触れた。ヨンウンの暖かい手がソンミンの服の間から性器の上でうごめくと、ソンミンは素早く彼の手首を掴み、制した。これ以上、ヨンウンの手が少しでも動けば危うかった。彼の手に無様に興奮を覚えるところだった。性器に伝わる暖かさのせいで、冷たいタイルに当たっている背中からぴりっとした感じが伝わってきた。
「それに、おまえみたいに女に見えるようなやつ、俺が特に嫌いな人種だからな」
僕はおまえそのもが嫌いだ! と言いたかったが、ヨンウンはソンミンの手を振り払ってトイレを出ていってしまった。
ソンミンはさっきヨンウンが触れた部分を手で払った。すると身体がぶるぶる震えだした。シウォン、シウォン、シウォン。心の中で呼ぶと、腹立たしさが余計に込み上げてきた。どうしてあのときジュリエットのセリフであいつのセリフに答えてしまったのだろう。どんなに後悔してみても時間を戻すことはできない。携帯電話を取り出して、シウォンと撮った写真に設定された待受画面を見ながら、微笑みを浮かべるシウォンにキスをした。
「それでも僕らの劇を止めるわけにはいかない。そうだよね、シウォン」
唇の端を苦労して持ち上げ、笑みを浮かべながらもう一度鏡の前に行き、髪を見た。髪の毛がちょっと浮いていたが、目立つほどではなかった。自然と溜息が漏れた。いっそ髪の毛がぼさぼさになって、あの男に犯されたみたいだと皮肉りながら言えればよかったのに――。そんなことを思いながら腹の中で楽しんでいる自分がすごく格好悪かった。自分の手では綺麗に直ってくれない髪をとんとん叩きながら、ソンミンは会議室に向かった。
「あ、ソンミン。来たな。ここに座れ」
円卓テーブルが置かれた会議室に入ると、ヒチョルが椅子を渡してくれた。腰を下ろそうとしたとき、隣に座って台本呼んでいるヨンウンが目に入った。ソンミンが止まるとヒチョルは早く座れと催促するようにソンミンを見た。ソンミンはヒチョルがその大きな眼に力を入れて自分を見つめると、しゅんとして椅子に座った。
「それじゃあ【RそしてJ】の冬シーズンの開幕に向けて……」
団長が太い声で会議を始めたが、ソンミンには太った団長の身体から虫の羽音でも鳴っているかのようにどうでもいい音に感じられた。全神経が、隣で台本をしっかり見ているヨンウンにだけ向いていた。どこもかしこも気にいるところがひとつもなかった。なぜ生まれつきそんな性格なのか、なぜ人の気持ちを傷つけるのか、そして今日時間ぴったりにセンターに来たことも気に入らなかった。もう確実にこの人間がロミオだ。
「俺の顔は高いぜ。こっちを見るな」
自分でも気づかないうちにずっとヨンウンを見つめていたらしく、ヨンウンが台本を見ながら静かに言った。彼の言葉にびくっとして、ソンミンは急いで顔を背けた。
「そ、そっちを見ていたじゃないんですけど」
「俺じゃなくて台本を見ていたって? そんな嘘、全然かわいくないぜ」
最後のプライドで言ったのに、失敗した。きっとこの男に対しては何も期待せず、何もかも諦めて、芝居だけをすればいいのだと思った。彼には自分が“イ・ソンミン”である必要がないのだ。ただ【RそしてJ】の“ジュリエット”がいればそれでいいのだ。しかし【RそしてJ】の“ジュリエット”は“イ・ソンミン”だった。そして“イ・ソンミン”のロミオは“チェ・シウォン”だった。過去形で彼のことを語るのがどれだけ悲しいことか、まだ実感はわかなかった。
「それじゃあ新しくロミオになったキム・ヨンウン君、挨拶でもするか」
団長はもう公演日程を全部言ったらしく、ヨンウンに話す機会を与えた。ヨンウンはさっとうなずくと、台本をテーブルに置いて立ち上がった。
「新しくロミオ役を演じることになったキム・ヨンウンです。前の方とは演技スタイルがすごく違うと思いますが、その部分に対してはタッチしないてください。以上」
スタッフたちの顔はもちろん、度量の大きい団長の表情さえも固まった。唯一ソンミンだけが、おまえはそうやつだという表情を浮かべ、平然と受け入れるだけだった。が、顔色の変化が他と違う人間がもうひとりいた。ソンミンの横にいたヒチョルだ。彼はにっこりと笑っていた。
「おい、おまえが気に入った」
「俺はあなたが気に入りませんけど」
会議室から人々がほとんど出て行った後、ヒチョルがヨンウンに声をかけた。ヒチョルはやはり言い放つような口調だったが、ヨンウンのように冷徹ではなかった。冷たく人を無視するヨンウンの口調にも、ヒチョルは気にせず笑いながら、手にしていた日程リストをくるくる回し、ヨンウンの肩をぱんぱん叩きながら言った。
「おい、仲良くやろうぜ」
「もういっぺん叩いたら手首を追るぞ。おまえは俳優じゃないからどこが折れても 関係ないだろ」
ヨンウンがヒチョルを睨みながら言ったが、
「見かけと違って荒々しいんだな」
相変わらずヒチョルは日程リストをくるくる回しながらヨンウンの肩を叩き、笑って見せた。
「この野郎……」
ヨンウンが椅子から立ち上がりヒチョルの胸倉を掴もうとすると、ヒチョルも席から立ち上がってヨンウンを睨んだ。
「おまえがオーディションを受けたということは芝居をしたいということだろう。それなら大人しく芝居だけして帰れ。訳もなく韓国に帰ってきて、ここの人間たちを困らせたりしないで」
「……」
「ああ、それからヒョンって呼べよ。何様のつもりでタメ口聞いてんだ」
ヒチョルはしばらくぎゅっと結んでいた唇を再び持ち上げて微笑みを浮かべながら、ヨンウンの頭をとんとん叩いた。ヨンウンの表情がすっと硬くなったが、ヒチョルはものともせずに鼻歌を歌いながら、【RそしてJ】の練習のために会議室から出ていった。
「じゃあシーン1から合わせてみようか」
出演者たちがみんな集まると、演出スタッフが練習開始を知らせた。
シーン1の練習が始まり、【RそしてJ】の始まりを告げるサムソンとグレゴリウスを演じる俳優たちが演技を始めた。これから始まる【RそしてJ】の稽古は、ほとんどヨンウンのために行われると言っても過言ではなかった。新しく迎え入れられた主演俳優に芝居の流れを教えるために、俳優たちは渾身の力を尽くして演技をしているように見えた。ソンミンは練習室の端に座り、毎日見てきた芝居は見ずに、ぼんやりと壁の隅を見つめていた。4面が集まった場所は冷たさが角をなしていた。ぼんやりとその頂点を見つめているソンミンの頬を、ヒチョルは強くつねった。
「あぁっ!」
ヒチョルはまたその大きな目を怒らせながら芝居を見ろという目つきをした。まだシーン1で、ジュリエットが出るまでは時間があるが集中しろという意味だった。練習と言えど俳優全員に集中させたい考えのヒチョルだ。ソンミンは見つめていた角を惜しむように最後にもう一度見つめて、ロミオ役のヨンウンが召使いとベンヴォーリオの場面を練習するのを見た。ヨンウンはまだセリフを覚えておらず台本片手なのに対し、召使いとベンヴォーリオ役の俳優たちはそれぞれの役を格好よく演じきっていた。ソンミンはこのシーンが嫌いだ。他のシーンは全部好きだが、このシーンのロミオはまだジュリエットに出逢う前――ロザリンを慕うロミオだ。ベンヴォーリオがロミオを宴に連れていく途中、その宴にはロザリンよりももっと美しい美女がいるとロミオを誘う。しかしまだ幼いロミオはこんなふうに答える。
「私の愛する人よりも美しい女性だって? この世が始まって以来、万物を見下ろす太陽だってそれほど美しい女性を見たことなんかないさ」
それほど幼かった子どもがその宴に行きジュリエットを見た瞬間、自分が唯一愛する人だと自信ありげに言っていたロザリンは、彼にとって何でもない人になった。いつもシウォンが言うロミオのセリフでもソンミンはロザリンがかわいそうだと思っていた。
「ジュリエットお嬢様!」
ぼんやりしていると、乳母役の役者がソンミンを急かす声でもう一度呼び、やっとソンミンは立ち上がった。他の役者たちがみんな不安そうな目でソンミンを見つめていた。魂を抜かれたような彼は、まさかジュリエットのセリフを忘れてしまったのではないか。あの鋭い刃を胸に抱くロミオに食べられてしまうのではないか。ソンミンが今にも割れそうな薄い氷の上に載っているかのような心境で、全員がソンミンのセリフが続くよう祈った。
「どうしたの? 誰が呼んだの?」
ソンミンは彼らの心配など無用だと言うように、平然とした様子でセリフを言った。少しの震えもなく、キャピュレット夫人と乳母と一緒のシーン3の場面を演じた。変わりなくいい芝居だった。シーン3の場面はジュリエットのセリフは少なくて、全ての表情と身振りでジュリエットの心情を表現しなければならない。キャピュレット夫人にパリス伯爵との結婚を勧められるジュリットは、淡々として従順だった。ソンミンはジュリエットの衣装は着ていなかったが、みんなにジュリエットが感じる感情を感じさせた。さすが”ジュリエット”で”WHO”だった。シーン3の終わりを告げる乳母のセリフが続いた。
「こちらにいらっしゃい、お譲さん。楽しい昼をお過ごしになった後は、今度は楽しい夜をお過ごしになりましょう」
シーン3が終わり、しばらくの休憩になった。役者たちを少し休ませるためでもあったが、ヨンウンに芝居の流れがわかったかどうか確認するためだ。団長は練習室の真ん中に立ち、10分間の休憩時間を知らせた。
「どうだ、キム・ヨンウンは。確かにシウォンとはスタイルが違うが、あいつが演じるロミオもかっこいいじゃないか」
ヒチョルがソンミンのそばにやってきて、丸めた台本を掌にぽんぽん当てながら言った。しかしソンミンは何も答えなかった。ヨンウンの演技を見ていなかったからだ。ヨンウンをシウォンだと思い込もうとずっと頭の中で自己暗示をかけていて、もうそろそろヨンウンがシウォンに見えはじめてきたところなので、彼がどんな演技をしているのかまで把握できなかった。しかし期待に満ちたヒチョルの視線に、ソンミンはうなずきながら言った。
「う……うん、かっこいいと思います」
「もうすぐシーン5からはキスシーンもあるだろ? アマチュアみたいに振る舞ったらだめだぞ」
しまった――。
微笑みを浮かべていたソンミンの表情が、目を丸くして口を開いたまま固まった。どうしてそれを考えなかったのかと、ヒチョルは情けないというように舌打ちをした。あいつとキスだなんて……。いや、違う。ただロミオとジュリエットのキスシーンというだけだ。ヒチョルの言葉通りアマチュアのように振る舞ってはいけないのだ。
「も……もちろん」
大丈夫な表情ではなかったが、ヒチョルはソンミンの肩をとんとんと叩いてくれた。まるで魂が抜けたようなソンミンは、首を回してヨンウンが座っているほうを見つめた。するとヨンウンは、「何こっちを見ているんだ」というような目つきでソンミンを睨んできて、彼はまたさっとうつむいた。
シウォンの声を聞きたい。シウォンが自分の手を握り締めて落ち着かせてくれたら――。
ソンミンの心の中はシウォン一色だった。現実のロミオを否定したいが、何百回否定しても現実は変わらない。
素早くポケットから携帯電話を取り出して短縮ボタン1番を押した。信号音が一度、二度、三度鳴り、シウォンの暖かい声が聞こえた。
「あ、もしもし、シウォ――」
そのとき、耳にしていた携帯電話が取り上げられ、シウォンの声が遠くなった。驚いて後ろを振り向くと、ヨンウンがソンミンのピンク色の携帯電話をさっと閉じて、自分のズボンの後ろポケットにしまっていた。
「何するんですか!」
「ちび、休憩時間は終わりだ。俺のシーンだ。他のことに気を取られるな」
「携帯電話返して下さいよ!」
「練習が終わるまで没収!」
「そんなのひどいですよ。返して下さい!」
「殴られたいのか?」
すでにヨンウンの拳は宙に上がっていた。彼の拳は本当に大きかった。熊でも殴れそうだ。ソンミンは唇をひそめながら、結局諦めた。突然切れた電話にシウォンは心配しているだろうが、どうしようもなかった。あの拳で殴られた日には、シウォンを2倍心配させることになる。
完全にテンションが落ち切ったソンミンは自分の出番がないシーン4の稽古終わるまで壁際にうずくまって何やらぶつぶつ呟いていた。多分キム・ヨンウンを呪う呪文でも呟いていたのだろう。
シーン4が無難に過ぎ、シーン5の場面が始まると、ソンミンは立ち上がりシーンに加わった。
「私の心が今までに真実の恋をしたことがあっただろうか。いや、ないだろう、私の目よ。私は今夜、初めて本当の美しさを目にしたのだ」
ロミオがジュリエットを初めて見たときのセリフを言いながら、ヨンウンはソンミンを見つめた。だがソンミンはヨンウンが自分を見つめていることにも気づかないまま、ぼんやりと立ち尽くしながら、まだぶつぶつ呟いていた。
「私が卑しい手でこの神々しい神殿を汚しているのなら、柔らかい口づけでその罪を洗おうと思います。私の唇をはにかむふたりの巡礼者のようにここで待っています」
ヨンウンは台本通り、ソンミンの手を取りながら言った。ヨンウンが手を握ると、ソンミンは呟くのをやめ、何でもないような表情でジュリエットのセリフをつづけた。だがもうすぐ台本の通り、ヨンウンはソンミンにキスをするのだ。いや、ロミオがジュリエットにキスをする。ソンミンは平然と演技をしていたが、心の中はぶるぶると震えていた。アドリブでもして、キスまでなんとか時間稼ぎをしようかとも思ったが、不思議なことに自分の手を握り締めるヨンウンの手は暖かかった。
「動かないで下さい。私が祈りの効き目を直接確認するまでは」
ロミオがジュリエットにキスをした。
「あなたの唇が、私の唇の罪を洗い流してくれました」
ロミオのセリフが終ると、ソンミンが固まってしまった。【RそしてJ】で一番重要な部分をあげるとすれば絶対にはずせないのがこのロミオとジュリエットのファーストキスのシーンなのに、ソンミンは真っ白になって立ち尽くしいた。ヨンウンがソンミンの手をぎゅっと握りしめて次のセリフを誘導したが、ソンミンはヨンウンの手を振り払い、口を覆いながら練習室を飛び出していった。
「ソンミン!」
ヒチョルが飛び出していったソンミンの後を追い、役者たちはとうとう事が起こったという表情でヨンウンの反応を伺っていた。だがヨンウンは気分を悪くした表情もせず、まるでそうなることがわかっていたかのように平然と笑みを浮かべて、もう一度台本をめくって自分のセリフを呟いた。
「キャピュレットだったのか……」
嘔吐するような声が3階の廊下の端にあるトイレから響いてきた。ヒチョルはトイレのドアを開けながらソンミンを探し、最後の個室の中で、身体を丸めて吐けないものを吐こうとしているソンミンを見つめた。
「おい、何か悪いものでも食べたのか?」
「ううっ」
「ソンミン、大丈夫か?」
ソンミンの背中を叩きながら、ヒチョルは心配そうな声で聞いた。胃液が食道を焼く苦痛に、ソンミンの目からは涙が流れていた。ソンミンはヒチョルの言葉にも答えられないまま、何の罪もない胃液だけを吐き出した。ヒチョルは練習室を飛び出してしまったソンミンのプロらしくない姿に怒っていたが、こんな姿を見るとむしろかわいそうになり、背中を優しく撫でてあげた。もしかすると、まだジュリエット以外にちゃんとした公演をしたことのないソンミンに期待をし過ぎていたのかもしれない。ヒチョルは自分自身を責めた。拒否されたキム・ヨンウンもすごく驚いただろうし、今こんなふうに嘔吐しているソンミンもひどく驚いているだろう。
少し落ち着いたのか、吐くのを止めたソンミンは袖の端で口元を激しく拭った。ヒチョルはハンカチを手渡しながらソンミンに聞いた。
「落ち着いたか?」
「ヒョン……僕、シウォンじゃなきゃダメみたい」
* * *
お読み頂き、ありがとうございます。
ソンミンに拒絶されたヨンウン――。
ヨンウン、強いよねえ。ドSでしょ(笑)
次回、さらにドSなヨンウンが登場します。
……18禁です。
# 03
「どうしたんだよ。顔が完全に腐りきってるな。シウォンとケンカしたか?」
風がだんだん冷たくなってきたが暖かい日差しが射す朝。センターに到着し、会議室がある3階に行こうと階段を上っていたソンミンの肩をとんと叩きながらヒチョルが言ってきた。
ソンミンが横で結んだカバンの紐は、もうすぐカバンが床につきそうなくらいだらりと垂れさがり、肩の端にぶらぶらとぶら下がっている。髪は洗ったまま乾いていないようで、あちこち飛び跳ねている上に、毎日きらきら輝いているソンミンの瞳はどんよりと曇っていた。
ソンミンはヒチョルの言葉に首を横に振りながら、違うと言った。いっそシウォンとケンカをしたほうがまだましだった。シウォンのせいでこの廃人のような格好で歩き回っているのならどんなに良かっただろう。ソンミンはこれがシウォンのせいではないから余計に肩を落とした。
あの気に入らない人間のせいで、ソンミンは家に帰ってからもずっと、布団の中で泣いて怒って泣いて怒っての繰り返しだった。シウォンが何かあったのかと聞いてきても、その侮辱的な言葉を口にするのも腹が立った。シウォンがずっとソンミンのそばにいてくれたが、何もかもキム・ヨンウンのせいで怒りを鎮まらなかった。
ソンミンはヨンウンのせいで、今日はセノーカフェでカフェラテの香りを嗅ぐのはやめた。顔も見たくないあの男にまた出くわしてしまうかもしれないから、もうひとりでセノーカフェは行くのはやめると決心した。
今朝ずっとソンミンの気分をよくしてくれたシウォンが今はいないので、ソンミンはまるで生きる意欲を失った人のように茫然としていた。
「ケンカしてないとか言って、どう見てもケンカした後みたいな格好だぜ。トイレに行ってちょっと髪を直してから会議室に来いよ。わかったか?」
ソンミンがうなずくと、ヒチョルは鼻歌を歌いながらせかせかと3階の会議室に駆けあがっていった。ぼんやりと壁をつかんでいるうちに、やっとヒチョルの言葉がソンミンの頭に入ってきて消化された。髪がそんなにめちゃくちゃなのかと思って髪をごしごし撫でながら、階段を上りかけた足を1階のトイレに向けた。
トイレの鏡で自分の髪を見てみると、無様だった。若干長い後ろ髪はちゃんと肩についていたが、問題は後ろ髪よりも短い頭のてっぺんの髪の毛で、宇宙と交信でもするみたいにぴんと立っていた。この格好で家からセンターまで歩いてきたのかと思うと恥ずかしくなって、すぐに蛇口を回して手に水をつけた。
「どうしてこんなに跳ねるんだよぅ」
水をつけて直そうとしても、髪の毛はまたこっそりと跳ねあがろうとして、曖昧に浮きあがったヘアスタイルが余計に笑えた。無表情だったソンミンの顔がたちまち泣きそうになる。
これも全部あいつのせいだ――。
「髪くらい直してから来いよ。おまえは天下の”WHO”様だろ」
誰かが後ろからソンミンの髪の束を伸ばして、暖かな息を吹きかけた。鏡越しに見えたのはまさに縁起でもないあの男だった。ソンミンはヨンウンの息遣いに、首の後ろから寒気がした。すぐに振り返り、背中を壁につけて防御体制を取った。またどんな鋭い言葉で自分を傷つけようとするかわからない、危険な人間だ。
「な……何してるんですか」
「男が男子トイレに来て用を足すのがおかしいか?」
ソンミンが洗面台の前から退いた後、ヨンウンは何でもないように鏡を見ていた。
「い……いや、そうじゃなくて。僕に対して何をするんですかっていう意味で……」
「はっ」
ヨンウンは虚しい笑いを浮かべてソンミンを見た。ヨンウンは壁にくっついているソンミンに近づき、顔の横に片手をついた。タイルにヨンウンの手がついて鈍い音が響くと、ソンミンは驚いて身じろぎをした。カンインはソンミンよりも背が高く、見下ろしてくるその眼差しは脅迫的だった。大人しくしているところをわざわざ怒らせてしまったと思い、今さらソンミンは後悔した。突然優しくふるまってきた彼にただ驚いただけなのに、たちまちこんな怖い人間に戻るなんて――。
「俺がおまえに何をしたって言うんだ」
「い、いや……急に髪を……」
「それが? 俺がおまえの髪に触ったらだめなのか? 舞台が始まったら俺が隅から隅まで全部触るのに、その度に怖がってそんなふうに子猫みたいに壁にくっつくのか?」
そう言いながらだんだん顔が近づいてくると彼の脅威は増した。彼の言葉は正しかった。演劇にはキスシーンもあり、抱擁シーンも数えきれないほどあった。それくらいロミオとジュリエットが愛し合っているということだから、その場面を全部除けば演劇の半分以上がなくなってしまう。しかしこんなふうに近くにいるのは無理だった。近く感じられるヨンウンの呼吸に、ソンミンはぞっとして息が止まりそうだった。
「どうしてそんなに怯えているんだ? 取って食われるとでも思ってるのか?」
「……い、いえ」
「俺はおまえみたいにやる気のないやつには興味ないんだよ」
ヨンウンはソンミンの耳元に顔を近づけて、そっとソンミンの股間に触れた。ヨンウンの暖かい手がソンミンの服の間から性器の上でうごめくと、ソンミンは素早く彼の手首を掴み、制した。これ以上、ヨンウンの手が少しでも動けば危うかった。彼の手に無様に興奮を覚えるところだった。性器に伝わる暖かさのせいで、冷たいタイルに当たっている背中からぴりっとした感じが伝わってきた。
「それに、おまえみたいに女に見えるようなやつ、俺が特に嫌いな人種だからな」
僕はおまえそのもが嫌いだ! と言いたかったが、ヨンウンはソンミンの手を振り払ってトイレを出ていってしまった。
ソンミンはさっきヨンウンが触れた部分を手で払った。すると身体がぶるぶる震えだした。シウォン、シウォン、シウォン。心の中で呼ぶと、腹立たしさが余計に込み上げてきた。どうしてあのときジュリエットのセリフであいつのセリフに答えてしまったのだろう。どんなに後悔してみても時間を戻すことはできない。携帯電話を取り出して、シウォンと撮った写真に設定された待受画面を見ながら、微笑みを浮かべるシウォンにキスをした。
「それでも僕らの劇を止めるわけにはいかない。そうだよね、シウォン」
唇の端を苦労して持ち上げ、笑みを浮かべながらもう一度鏡の前に行き、髪を見た。髪の毛がちょっと浮いていたが、目立つほどではなかった。自然と溜息が漏れた。いっそ髪の毛がぼさぼさになって、あの男に犯されたみたいだと皮肉りながら言えればよかったのに――。そんなことを思いながら腹の中で楽しんでいる自分がすごく格好悪かった。自分の手では綺麗に直ってくれない髪をとんとん叩きながら、ソンミンは会議室に向かった。
「あ、ソンミン。来たな。ここに座れ」
円卓テーブルが置かれた会議室に入ると、ヒチョルが椅子を渡してくれた。腰を下ろそうとしたとき、隣に座って台本呼んでいるヨンウンが目に入った。ソンミンが止まるとヒチョルは早く座れと催促するようにソンミンを見た。ソンミンはヒチョルがその大きな眼に力を入れて自分を見つめると、しゅんとして椅子に座った。
「それじゃあ【RそしてJ】の冬シーズンの開幕に向けて……」
団長が太い声で会議を始めたが、ソンミンには太った団長の身体から虫の羽音でも鳴っているかのようにどうでもいい音に感じられた。全神経が、隣で台本をしっかり見ているヨンウンにだけ向いていた。どこもかしこも気にいるところがひとつもなかった。なぜ生まれつきそんな性格なのか、なぜ人の気持ちを傷つけるのか、そして今日時間ぴったりにセンターに来たことも気に入らなかった。もう確実にこの人間がロミオだ。
「俺の顔は高いぜ。こっちを見るな」
自分でも気づかないうちにずっとヨンウンを見つめていたらしく、ヨンウンが台本を見ながら静かに言った。彼の言葉にびくっとして、ソンミンは急いで顔を背けた。
「そ、そっちを見ていたじゃないんですけど」
「俺じゃなくて台本を見ていたって? そんな嘘、全然かわいくないぜ」
最後のプライドで言ったのに、失敗した。きっとこの男に対しては何も期待せず、何もかも諦めて、芝居だけをすればいいのだと思った。彼には自分が“イ・ソンミン”である必要がないのだ。ただ【RそしてJ】の“ジュリエット”がいればそれでいいのだ。しかし【RそしてJ】の“ジュリエット”は“イ・ソンミン”だった。そして“イ・ソンミン”のロミオは“チェ・シウォン”だった。過去形で彼のことを語るのがどれだけ悲しいことか、まだ実感はわかなかった。
「それじゃあ新しくロミオになったキム・ヨンウン君、挨拶でもするか」
団長はもう公演日程を全部言ったらしく、ヨンウンに話す機会を与えた。ヨンウンはさっとうなずくと、台本をテーブルに置いて立ち上がった。
「新しくロミオ役を演じることになったキム・ヨンウンです。前の方とは演技スタイルがすごく違うと思いますが、その部分に対してはタッチしないてください。以上」
スタッフたちの顔はもちろん、度量の大きい団長の表情さえも固まった。唯一ソンミンだけが、おまえはそうやつだという表情を浮かべ、平然と受け入れるだけだった。が、顔色の変化が他と違う人間がもうひとりいた。ソンミンの横にいたヒチョルだ。彼はにっこりと笑っていた。
「おい、おまえが気に入った」
「俺はあなたが気に入りませんけど」
会議室から人々がほとんど出て行った後、ヒチョルがヨンウンに声をかけた。ヒチョルはやはり言い放つような口調だったが、ヨンウンのように冷徹ではなかった。冷たく人を無視するヨンウンの口調にも、ヒチョルは気にせず笑いながら、手にしていた日程リストをくるくる回し、ヨンウンの肩をぱんぱん叩きながら言った。
「おい、仲良くやろうぜ」
「もういっぺん叩いたら手首を追るぞ。おまえは俳優じゃないからどこが折れても 関係ないだろ」
ヨンウンがヒチョルを睨みながら言ったが、
「見かけと違って荒々しいんだな」
相変わらずヒチョルは日程リストをくるくる回しながらヨンウンの肩を叩き、笑って見せた。
「この野郎……」
ヨンウンが椅子から立ち上がりヒチョルの胸倉を掴もうとすると、ヒチョルも席から立ち上がってヨンウンを睨んだ。
「おまえがオーディションを受けたということは芝居をしたいということだろう。それなら大人しく芝居だけして帰れ。訳もなく韓国に帰ってきて、ここの人間たちを困らせたりしないで」
「……」
「ああ、それからヒョンって呼べよ。何様のつもりでタメ口聞いてんだ」
ヒチョルはしばらくぎゅっと結んでいた唇を再び持ち上げて微笑みを浮かべながら、ヨンウンの頭をとんとん叩いた。ヨンウンの表情がすっと硬くなったが、ヒチョルはものともせずに鼻歌を歌いながら、【RそしてJ】の練習のために会議室から出ていった。
「じゃあシーン1から合わせてみようか」
出演者たちがみんな集まると、演出スタッフが練習開始を知らせた。
シーン1の練習が始まり、【RそしてJ】の始まりを告げるサムソンとグレゴリウスを演じる俳優たちが演技を始めた。これから始まる【RそしてJ】の稽古は、ほとんどヨンウンのために行われると言っても過言ではなかった。新しく迎え入れられた主演俳優に芝居の流れを教えるために、俳優たちは渾身の力を尽くして演技をしているように見えた。ソンミンは練習室の端に座り、毎日見てきた芝居は見ずに、ぼんやりと壁の隅を見つめていた。4面が集まった場所は冷たさが角をなしていた。ぼんやりとその頂点を見つめているソンミンの頬を、ヒチョルは強くつねった。
「あぁっ!」
ヒチョルはまたその大きな目を怒らせながら芝居を見ろという目つきをした。まだシーン1で、ジュリエットが出るまでは時間があるが集中しろという意味だった。練習と言えど俳優全員に集中させたい考えのヒチョルだ。ソンミンは見つめていた角を惜しむように最後にもう一度見つめて、ロミオ役のヨンウンが召使いとベンヴォーリオの場面を練習するのを見た。ヨンウンはまだセリフを覚えておらず台本片手なのに対し、召使いとベンヴォーリオ役の俳優たちはそれぞれの役を格好よく演じきっていた。ソンミンはこのシーンが嫌いだ。他のシーンは全部好きだが、このシーンのロミオはまだジュリエットに出逢う前――ロザリンを慕うロミオだ。ベンヴォーリオがロミオを宴に連れていく途中、その宴にはロザリンよりももっと美しい美女がいるとロミオを誘う。しかしまだ幼いロミオはこんなふうに答える。
「私の愛する人よりも美しい女性だって? この世が始まって以来、万物を見下ろす太陽だってそれほど美しい女性を見たことなんかないさ」
それほど幼かった子どもがその宴に行きジュリエットを見た瞬間、自分が唯一愛する人だと自信ありげに言っていたロザリンは、彼にとって何でもない人になった。いつもシウォンが言うロミオのセリフでもソンミンはロザリンがかわいそうだと思っていた。
「ジュリエットお嬢様!」
ぼんやりしていると、乳母役の役者がソンミンを急かす声でもう一度呼び、やっとソンミンは立ち上がった。他の役者たちがみんな不安そうな目でソンミンを見つめていた。魂を抜かれたような彼は、まさかジュリエットのセリフを忘れてしまったのではないか。あの鋭い刃を胸に抱くロミオに食べられてしまうのではないか。ソンミンが今にも割れそうな薄い氷の上に載っているかのような心境で、全員がソンミンのセリフが続くよう祈った。
「どうしたの? 誰が呼んだの?」
ソンミンは彼らの心配など無用だと言うように、平然とした様子でセリフを言った。少しの震えもなく、キャピュレット夫人と乳母と一緒のシーン3の場面を演じた。変わりなくいい芝居だった。シーン3の場面はジュリエットのセリフは少なくて、全ての表情と身振りでジュリエットの心情を表現しなければならない。キャピュレット夫人にパリス伯爵との結婚を勧められるジュリットは、淡々として従順だった。ソンミンはジュリエットの衣装は着ていなかったが、みんなにジュリエットが感じる感情を感じさせた。さすが”ジュリエット”で”WHO”だった。シーン3の終わりを告げる乳母のセリフが続いた。
「こちらにいらっしゃい、お譲さん。楽しい昼をお過ごしになった後は、今度は楽しい夜をお過ごしになりましょう」
シーン3が終わり、しばらくの休憩になった。役者たちを少し休ませるためでもあったが、ヨンウンに芝居の流れがわかったかどうか確認するためだ。団長は練習室の真ん中に立ち、10分間の休憩時間を知らせた。
「どうだ、キム・ヨンウンは。確かにシウォンとはスタイルが違うが、あいつが演じるロミオもかっこいいじゃないか」
ヒチョルがソンミンのそばにやってきて、丸めた台本を掌にぽんぽん当てながら言った。しかしソンミンは何も答えなかった。ヨンウンの演技を見ていなかったからだ。ヨンウンをシウォンだと思い込もうとずっと頭の中で自己暗示をかけていて、もうそろそろヨンウンがシウォンに見えはじめてきたところなので、彼がどんな演技をしているのかまで把握できなかった。しかし期待に満ちたヒチョルの視線に、ソンミンはうなずきながら言った。
「う……うん、かっこいいと思います」
「もうすぐシーン5からはキスシーンもあるだろ? アマチュアみたいに振る舞ったらだめだぞ」
しまった――。
微笑みを浮かべていたソンミンの表情が、目を丸くして口を開いたまま固まった。どうしてそれを考えなかったのかと、ヒチョルは情けないというように舌打ちをした。あいつとキスだなんて……。いや、違う。ただロミオとジュリエットのキスシーンというだけだ。ヒチョルの言葉通りアマチュアのように振る舞ってはいけないのだ。
「も……もちろん」
大丈夫な表情ではなかったが、ヒチョルはソンミンの肩をとんとんと叩いてくれた。まるで魂が抜けたようなソンミンは、首を回してヨンウンが座っているほうを見つめた。するとヨンウンは、「何こっちを見ているんだ」というような目つきでソンミンを睨んできて、彼はまたさっとうつむいた。
シウォンの声を聞きたい。シウォンが自分の手を握り締めて落ち着かせてくれたら――。
ソンミンの心の中はシウォン一色だった。現実のロミオを否定したいが、何百回否定しても現実は変わらない。
素早くポケットから携帯電話を取り出して短縮ボタン1番を押した。信号音が一度、二度、三度鳴り、シウォンの暖かい声が聞こえた。
「あ、もしもし、シウォ――」
そのとき、耳にしていた携帯電話が取り上げられ、シウォンの声が遠くなった。驚いて後ろを振り向くと、ヨンウンがソンミンのピンク色の携帯電話をさっと閉じて、自分のズボンの後ろポケットにしまっていた。
「何するんですか!」
「ちび、休憩時間は終わりだ。俺のシーンだ。他のことに気を取られるな」
「携帯電話返して下さいよ!」
「練習が終わるまで没収!」
「そんなのひどいですよ。返して下さい!」
「殴られたいのか?」
すでにヨンウンの拳は宙に上がっていた。彼の拳は本当に大きかった。熊でも殴れそうだ。ソンミンは唇をひそめながら、結局諦めた。突然切れた電話にシウォンは心配しているだろうが、どうしようもなかった。あの拳で殴られた日には、シウォンを2倍心配させることになる。
完全にテンションが落ち切ったソンミンは自分の出番がないシーン4の稽古終わるまで壁際にうずくまって何やらぶつぶつ呟いていた。多分キム・ヨンウンを呪う呪文でも呟いていたのだろう。
シーン4が無難に過ぎ、シーン5の場面が始まると、ソンミンは立ち上がりシーンに加わった。
「私の心が今までに真実の恋をしたことがあっただろうか。いや、ないだろう、私の目よ。私は今夜、初めて本当の美しさを目にしたのだ」
ロミオがジュリエットを初めて見たときのセリフを言いながら、ヨンウンはソンミンを見つめた。だがソンミンはヨンウンが自分を見つめていることにも気づかないまま、ぼんやりと立ち尽くしながら、まだぶつぶつ呟いていた。
「私が卑しい手でこの神々しい神殿を汚しているのなら、柔らかい口づけでその罪を洗おうと思います。私の唇をはにかむふたりの巡礼者のようにここで待っています」
ヨンウンは台本通り、ソンミンの手を取りながら言った。ヨンウンが手を握ると、ソンミンは呟くのをやめ、何でもないような表情でジュリエットのセリフをつづけた。だがもうすぐ台本の通り、ヨンウンはソンミンにキスをするのだ。いや、ロミオがジュリエットにキスをする。ソンミンは平然と演技をしていたが、心の中はぶるぶると震えていた。アドリブでもして、キスまでなんとか時間稼ぎをしようかとも思ったが、不思議なことに自分の手を握り締めるヨンウンの手は暖かかった。
「動かないで下さい。私が祈りの効き目を直接確認するまでは」
ロミオがジュリエットにキスをした。
「あなたの唇が、私の唇の罪を洗い流してくれました」
ロミオのセリフが終ると、ソンミンが固まってしまった。【RそしてJ】で一番重要な部分をあげるとすれば絶対にはずせないのがこのロミオとジュリエットのファーストキスのシーンなのに、ソンミンは真っ白になって立ち尽くしいた。ヨンウンがソンミンの手をぎゅっと握りしめて次のセリフを誘導したが、ソンミンはヨンウンの手を振り払い、口を覆いながら練習室を飛び出していった。
「ソンミン!」
ヒチョルが飛び出していったソンミンの後を追い、役者たちはとうとう事が起こったという表情でヨンウンの反応を伺っていた。だがヨンウンは気分を悪くした表情もせず、まるでそうなることがわかっていたかのように平然と笑みを浮かべて、もう一度台本をめくって自分のセリフを呟いた。
「キャピュレットだったのか……」
嘔吐するような声が3階の廊下の端にあるトイレから響いてきた。ヒチョルはトイレのドアを開けながらソンミンを探し、最後の個室の中で、身体を丸めて吐けないものを吐こうとしているソンミンを見つめた。
「おい、何か悪いものでも食べたのか?」
「ううっ」
「ソンミン、大丈夫か?」
ソンミンの背中を叩きながら、ヒチョルは心配そうな声で聞いた。胃液が食道を焼く苦痛に、ソンミンの目からは涙が流れていた。ソンミンはヒチョルの言葉にも答えられないまま、何の罪もない胃液だけを吐き出した。ヒチョルは練習室を飛び出してしまったソンミンのプロらしくない姿に怒っていたが、こんな姿を見るとむしろかわいそうになり、背中を優しく撫でてあげた。もしかすると、まだジュリエット以外にちゃんとした公演をしたことのないソンミンに期待をし過ぎていたのかもしれない。ヒチョルは自分自身を責めた。拒否されたキム・ヨンウンもすごく驚いただろうし、今こんなふうに嘔吐しているソンミンもひどく驚いているだろう。
少し落ち着いたのか、吐くのを止めたソンミンは袖の端で口元を激しく拭った。ヒチョルはハンカチを手渡しながらソンミンに聞いた。
「落ち着いたか?」
「ヒョン……僕、シウォンじゃなきゃダメみたい」
* * *
お読み頂き、ありがとうございます。
ソンミンに拒絶されたヨンウン――。
ヨンウン、強いよねえ。ドSでしょ(笑)
次回、さらにドSなヨンウンが登場します。
……18禁です。








