最初から勝算なんてものはなかった。もし運がよくてネズミの命を取ることができたとしても、何重にも包囲されたネズミのホームグラウンドから生きて帰ってこられる確率はゼロに近かった。その上、ネズミは汚いほど勘が良かった。言葉通り、死にに行くようなものだ。自分の手を汚さずに敵を取り除く方法を思いついたチョ・ギュヒョンはやっぱり賢かった。しかし、今まで振り積もってきたその日暮らしの人生には未練なんてものはなく、むしろ背中に背負っていた重たい荷物を降ろすように軽い心地がした。
ネズミが拠点にしているクラブは、ネズミの縄張りの中心にあった。華麗なネオンサインが煌めくクラブの正門とは反対に、裏門は真っ暗な路地裏にあった。これまでのネズミの行動パターンから推測するに、やつが裏門から出てくることは間違いなかった。ネズミが出てくるのを待ちながら、カンインは真っ暗な路地裏の角に身を隠していた。
柄にもなく、高鳴る胸の音が鼓膜が破れるほど聞こえていた。いつもなら手下のやつらが震える声で「兄貴、生きて帰れたら一番したいことはなんですか?」と聞いてくれるのだが、今日は聞いてくれる人もいないので、ひとりで聞いて答えてみた。
「生きて帰れたら、一番したいことは何ですか?」
そうだな――。
その瞬間、星のように煌めきながら頭を過った儚いジャンキーの残像に、カンインはにやりと笑いながら、胸ポケットに手を伸ばした。フィリップ・モリスが入っていた。残っていたのはぴったり2本だ。1本取り出して火をつけると、外国製の硬い煙草の味が広がった。ジャンキーの匂いのように毒があってひりひりした。初めて吸うわけではないが涙が出るほど喉が詰まり、半分も吸えずに地面に捨ててしまった。
手から染み出るべとついた汗に、手の平が濡れている。ついさっきズボンの裾で拭った気がするのに、またこのざまだ。天下の狂犬カンインも緊張することがあるらしい。習慣的に見上げた空は、一層荒くなった風に星さえ消えた真黒な夜空だった。そのとき、クラブの裏門から誰かが出てきた。ネズミだった――。
噂通り、ネズミの周りには図体の大きな部下が6人いた。ごくり息を飲む音が際立って大きく聞こえる。ひっそりと沈黙を守る夜空よりも真っ暗な暗黒に染まった残忍な死というやつが、瞬く間にカンインを包囲した。果てしなく膨らむ緊張を落ち着けるために、腰からナイフを抜き、ゆっくりと回した。円を描く手がだんだんピッチをあげて早くなる。息が苦しくなる。カンインは姿勢を低めて、ネズミのほうをうかがった。
周囲をうかがい首を傾げていたネズミが手ぶりをした。それに忠実についていくネズミの部下たちは、よく訓練された飼い犬のようだった。ネズミが何かを言うと、部下4人が同時にうなずき、揃って路地を抜けていった。
一瞬にして、ネズミと部下2人だけになった。ネズミは部下2人と何か冗談を言っているらしく、卑劣な笑い声がカンインのところまで聞こえてきた。チャンスは今しかない。
円を描いたナイフをぎゅっと握りしめ、薄暗い街灯の下に出た。身体の一部であるかのように使い慣れたナイフが長い弧を描いた。
真っ赤な鮮血が飛び散った。カンインがたくさんの戦場から死なずに生き残れた理由は、人を刺す時の躊躇いのない冷徹な決断力と、無駄のない正確な動作にあった。カンインが腹部に深く刺したナイフに、部下のひとりが音もなく倒れた。運が良かった。まともに急所に刺さったらしく、倒れた部下は倒れたまま白目を向いて震えていた。
「クソッ!!! 狂犬カンイン!?」
奇襲を予想していなかったのか、薄暗い街灯に照らされたネズミの顔にやつれた青白い気配が浮かんだ。
ネズミのチューチュー鳴くような悪あがきに、カンインは後ろを振り向いた。シャッという何かが切れ音と共に、脇腹が虚ろになった。幸い刺されたのではなく掠っただけのようだった。血が溢れ出る脇腹が赤黒く染まっていったが、不思議なことに痛みは感じなかった。
もう一人の部下が、恐れ知らずにもカンインの懐にナイフを突き付けてきた。カンインはナイフを握りなおすと、その首筋に素早く正確にナイフを刺した。そうなることを予想できなかったのか、最後の顔に浮かんだ表情はうろたえそのものだった。
ナイフを抜くのが大変だった。カンインが男の首からナイフを抜くと、鈍い気管から噴水のように血が噴き出た。頭からどっと溢れ出る血は瞬く間に全身を覆った。首筋を切られた男はドスンと鈍い音を立てて、アスファルトの地面に倒れた。鼻先をかすめる腐った匂いが血なのか、体臭なのか区別もつかなかった。そして……残ったのはひとりだ。
腹から流れる血のせいか、それとも前髪からぽたぽた落ちる敵の血のせいなのか、視界がよく見えなかった。真っ赤なスクリーンだけが視界を占領していた。あっという間に自分の仲間2人を倒されたネズミの顔には死相が浮かんでいた。
にやりと開いたネズミの口から、何やら形容できない単語が零れ出た。ネズミが笑った。卑劣で腐ったように真一文字に噛み合った唇の端が上がった。どこかの誰かのように他人の血を浴びて生きる、惨くてあくどい悪魔のようだった。ネズミが悪態をつく声が鼓膜に響いた。腹からの出血が多いのか、カンインは目眩を感じた。
――これが最期だ。運が良ければネズミの腹に俺のナイフが刺さり、運が悪ければ俺が死ぬ。ヤマナラシのようにぶるぶる震えたネズミの手にも何かが握られていた。運が良ければナイフで、運が悪ければ拳銃だが、どちらでも関係ない。どちらにしても死ぬ命だ。ネズミ一匹退治してから逝けば、俺より先に死んでいった仲間たちの魂の慰めにもなるだろう。
すっかり血に染まったカンインの身体がぎしぎしと音を立てながらネズミに飛びかかった。走れば走るほど現実感がなくなり、足取りは速まった。ネズミの腹部を狙ったナイフが、柔らかな場所にぶすりと刺さった感覚がした。それと同時に、
「あ゛ぁっ!!!」
カンインはすさまじい悲鳴をあげた。自分の腹部に刺さった何かが抜かれる感じがした。さっき切られた場所を、また刺されたらしい。卑劣なネズミの最期の悪あがきだった。それを認識した瞬間、カンインは力なく膝から崩れ落ち、がくりと視界がと下がった。ネズミの手に握られたナイフには真っ赤な血がべっとりとついていた。喉元に吐き気が上ってくるのと当時に、視界がぐるぐると回った。ネズミは握りしめたナイフを怯えた目で見下ろして、そしてどさりと地面に倒れた。ひっくり返ったネズミは、指先までぶるぶる震えていた。しぶとい命だ。目眩がする身体をどうにか支えながら、カンインはズボンに差していた短刀を掴んだ。まだ声を出す力が残っているのか、ネズミはぺちゃくちゃとあがいていた。カンインはすっかり残虐無道な殺人鬼の姿になり果てていた。ネズミの悪態が狭い路地に響いた。自分の部下を呼んでいるのか。騒音のように鳴り響くその声は、カンインの耳にはひとつも入ってこなかった。うるさかった。眩暈がして、胸がむかついた。
真っ青な月明かりに照らされて夜明けのように輝く短刀が、開いたネズミの口に正確に突き刺さった。ネズミの口から溢れ出た血で、カンインの視界はまた真っ赤に染まった。生暖かい腐った匂いがした。どこからそんな力が出たのかはわからないが、カンインはネズミの喉深くに刺さった短刀を抜いた。使い慣れた短刀がぶるぶると震えた。
殺戮が終わった静かな路地裏はたちまち生臭い匂いを漂わせた。出血が多すぎるのか、カンインの視界がまたぐるぐると回った。血が回らない下半身には全く力が入らなかった。自分の身体一つ支えられないカンインは、ありったけの腕の力を使い車のほうへ這っていった。カンインの身体から流れ出た血が路地裏を真黒に染めた。地面が吸収できずに溜まっていく真黒な血だまりをかき分けながら、カンインは車に向かって両手で這っていった。涙なのか血なのか、頬を伝って落ちるものが熱くて、頬が焼けるようだった。
――生きて帰れたら、一番したいことは何かって? そうだな……。
カンインは人生の最期に直面して、ずっと封印してきた自分の気持ちをひっぱり出した。
――生きて帰れたら、おまえに愛してると言いたい。そう……もう意味のない言葉になってしまったけれど。そう言いたい……もう、意味のない言葉になってしまったけれど。
*
どんな意識で事務所まで運転したのかはわからない。痛覚が戻ってきはじめたらしく、深く刺された傷が嫌になるほど痛んだ。噛みしめた唇からは絶えず呻き声が流れた。何度も死の境を行き来しながら生きてきたカンインだが、こんなにも傷が痛むのは初めてだった。こびりついた血のせいで動きにくい。ただでさえ力の入らない身体が、固まったネズミの血に縛られながらもがいていた。
カンインは今の自分の姿がおかしかった。いつも自分の命を投げ捨てて生きてきたはずなのに、いざ死に直面するとこんなにも怖気づいて命を渇望している自分の姿がくだらなく感じられた。しかし自分の姿を嘲笑う力も残っていなかった。何もかもが現実でないようにぐるぐると回った。
エレベーターが7階に到着したことを知らせる信号音も、どこか遠い場所から響いてくるようだった。エレベーターのドアが開くと、カンインはありったけの力を尽くして両手で這っていった。辛うじて傷跡を残そうとするように、身体にいくらも残っていない血が白い廊下に尾を引いた。
そして、カンインの腕が止まった。必死に腕で支えていた身体が沈むのと同時に、ドスンと廊下の床に額をぶつける音が自分のものではないかのように固く鳴り響いた。冷たい廊下に触れたところから、身体が冷やかに冷たくなっていく感じがした。
カンインは考えた。自分は一体何に期待して最期の力を尽くしてここまで来たのかを。何が原因で、クズみたいな命を伸ばそうと悪あがきをしていたのかを。一体何に未練が残って、狭まる視界を引き戻そうとしていたのかを。だが、何も考えられなかった。複雑にちらつく考えが絡み合って、とうとう真っ白になっていった。
――クソッ。
何もわからない。気だるい身体に眠気が襲ってきた。
果てしなく遠くなっていく視界の中で、何かがパタパタと落ちる音がした。そして大きな足音のあとで、ジャンキーの悲鳴が暗い廊下に鳴り響いた。
――ずっと待ってるから!!
ああ、たった……それだけの理由だったのか。カンインは思った。俺の汚れた人生に未練を残したものは……おまえだったんだな。
*
マンションを出た。約半年も過ごしたとは思えないほど荷物のない両手は、自分がどれだけギュヒョンにもらってばかりで生きてきたかを物語っているようだった。恥ずかしい両手を隠すように、ソンミンは飾り棚の中のフィリップ・モリスを全部胸に抱えた。最後だから、これくらいのことならギュヒョンは許してくれるだろうと思った。
家一軒分ぐらいに膨らんだ後悔はあまりにも遅くやってきて、満ち潮のようにソンミンを倒した。ギュヒョンが見送る前に、自分の足でさっさと出発できなかったわがままな自分に鳥肌が立った。
ギュヒョンはいつもまっすぐでさっぱりしていて綺麗だった。真っ白だった。ソンミンにとって世界の素敵な言葉達は何もかもギュヒョンのためのものだった。ソンミンは初めて会った時から、本能的にわかっていたのかもしれない。ギュヒョンが自分と違う世界の人間だということを。
人は皆、そんなふうに自分と違う世界の人間に対して好奇心を抱く。そして判断する。憧れか、それとも軽蔑か。ソンミンはギュヒョンに憧れていた。しかしソンミンがその延長線上から伸ばされた白い手を掴むことは、ギュヒョンの破滅を招くということも、ソンミンは本能的にわかっていたのかもしれない。
取り合った手から真っ黒な墨汁が広がっていった。ギュヒョンの生気のない頬を掠め、さっぱりした目の端まで燃えあげる自分の黒い影は、すぐにギュヒョンを蝕んでいった。だから去らなければならなかった。ギュヒョンは存在そのものが自分とは違う人間だった。だから、ギュヒョンを愛することはできなくて、目を合わせるのもつらかった。そんな時間はもう終わらせなければならなかった。ギュヒョンを食いつくそうと飛びかかる自分の暗黒を消さなければならなかった。だから自分から去るのだ。これ以上、完璧なギュヒョンがだめにならないように。いや、自分の宿命のような暗闇に染まってゆくギュヒョンを見ないために。僕という人間はこんなにもわがままでずるがしこい。
笑えることに、マンションを出た足は自然と彼の事務所に向かった。
深い夜は事務所の廊下にも例外なく入り込んでいて、少し先も見えないくらいの暗闇にひっそりと染まっていた。事務所のドアはカギがかかっているかもしれないが、その前でずっと身を縮めて待っていれば、いつかは彼が開けてくれるだろう。そして僕は両腕を広げ、遠い旅行から帰ってきた彼の首に抱きつこう。あなたの所にきたよと。彼は今度こそ、僕を振り払ったりしないはずだ。胸に溢れる彼を想像するだけで、僕はこんなにもうっとりする。そのときだった。
ズシン!
何かが床にぶつかる音がした。妄想の隙間に入り込んだ鈍い騒音で、沈黙を守っていた周囲がひんやりと崩れ落ちた。胸にぎっしりと抱えたフィリップ・モリスが、ソンミンの腕からばらばらと零れた。何も見えないが、鼻先を掠める生臭い匂いに、不吉な気配が這いあがってきた。ソンミンは音のしたほうへ向かった。暗闇に慣れた瞳にシルエットが入ってきて、足取りがゆっくり遅くなった。何かが足元で跳ねて、ねばねばとズボンのすそを掴んだ。その瞬間、足の力がふっと抜けて、ソンミンは崩れるようにへたり込んだ。指の間にねばねばと暖かなものが触れた。ソンミンは両手を上げて、目の前に持っていった。
「う゛わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛っ゛っ゛!!!!!!!!!」
目の前に溢れた血に、一瞬にして息が止まった。獣のように四本の足で這った。染みこめない床に溜まった血だまりが指先に満ちた。 ソンミンは死んだように倒れているヨンウンに手を伸ばした。目が見えないように手探りで宙を徘徊していたソンミンの指が、やっとヨンウンの顔に触れた。ぶるぶる震える指先がヨンウンの綺麗な鼻筋と眼の下にある傷を確認するように、乱暴に触れた。触れた指先から冷たさが伝わってくるようだった。
「あ゛あ゛っ……!!! キム・ヨンウン!!!!!!!!!」」
嗚咽が起こるのと同時に、ソンミンは荒々しく彼の頭を抱きしめた。彼と触れた部分は確かに暖かいのに、冷たい冷気が這い上がってくるようだ。血生臭い匂いと床に溢れた腐った血に、みぞおちの先から吐き気が込み上げた。吐き気に混じって悲鳴が出た。彼の前髪についた血の粉がぱらぱらと落ちた。
「キム・ヨンウン!!!!! あ゛ぁ゛っ゛……キム・ヨンウン!!!!!!」
身体が裂けるほどありったけの声でわめき散らしながら呼んでも答えはない。握りしめた両手で心臓を叩いても、どんなに肩を揺らしても返事がない。
「誰か……誰か!! 誰かいませんか!?」
込み上げてくる涙が蒼白となった頬を伝って、ヨンウンの上にぽたりぽたりと落ちた。涙は彼の痩せた顔の上に振り撒かれた。ソンミンは生き返ることなく、死んだにように横たわっているヨンウンの頭を抱きしめて嗚咽した。いっそ遠くに行ってくれればよかったのに、どうして戻ってきたんだ。こんな有様で帰ってきて、どうして死んだように寝ているんだと聞いても、彼は何も答えない。
そのときだった。
「どうして泣いているんだ?」
ソンミンははっとして下を向いた。痛みに勝てずに眉をしかめながら、ヨンウンはソンミンを見た。そしてまた目を閉じる。
「うるさくて……寝ていられないな」
目を閉じたヨンウンの唇が言った。
「キム・ヨンウン! 大丈夫? 大丈夫なの?」
「今夜はどうしてここにきた?」
「どうして……どうして……どこでやられたの?」
「おまえのせいで……そう……だから……俺のことは知らないふりをしろと言ったのに……っ!」
お互いに対する気持ちが溢れて噛みあわない会話が、カンインの呻き声で断たれた。
苦痛で大きく上下する肩に、ソンミンはまたヨンウンの顔を抱きしめた。目尻から流れ落ちる涙がヨンウンの顔の上に落ちた。ヨンウンの唇が苦々しく笑った。
「泣くなって言っただろ……話も……ちゃんと聞けないんだな……バカ野郎……」
「……ヨンウン、大丈夫?」
ヨンウンは言葉を言うのが辛そうで、吐き出す息が不規則だった。
「トグンを呼んできてくれ……下の階にいるはずだ……」
ヨンウンは涙に濡れたソンミンの頬に触れたかったが、そんな力は残っていなかった。ヨンウンはありったけの力を尽くして、微かに唇を持ち上げ、ソンミンを押した。ヨンウンの言葉にもたもたと立ち上がったソンミンが震えながら這うように出ていった。
まだソンミンの悲痛な鳴き声が耳元に溢れている。ぼんやりと視界が狭まっていくのに、ソンミンが自分の名前を呼びながら泣き叫んだ瞬間、不思議と目が開いた。
おまえのために死んでやろうとしたのに、どうしておまえが俺を助けるんだ……。神様はときどき……おかしなことをするものだ。
*
コンコンコン。
事務所のソファに身体をまるめて 眠っていたトグンの耳に、壊れるくらいに激しくドアが叩く音が聞こえた。
やかましい音に、トグンははっと目を覚ました。
――こんな真夜中にどこのどいつだよ……。
顔をしかめながらドアを開けた瞬間、何かが胸に飛び込んできた。涙に濡れた眼でトグンを見上げていたのはソンミンだった。いつも澄んでいた顔が血なのか涙のかわからないものでめちゃくちゃになっていて、真っ白だったはずのプレーンTシャツは血に染まっていた。そしてイ・ソンミンはまるで精神病患者のように、ぽつりぽつりと辻褄があわない言葉を吐き出した。
「た…助けて…」
「はい? あの……」
「助けて下さい、キム……キム・ヨンウンを助けて……」
「なんですって?」
「上の階に……いるんです……血が……助けて……」
ソンミンの痩せた身体がトグンの腕を握りしめながら、ぽつりぽつりと言葉を吐き出した。トグンは目がくっつくくらいに眉をひそめ、顔をしかめた。おおまかな状況を把握したトグンの口から、独り言のように言葉が漏れた。
「チョ・ギュヒョン……あいつ!」
「え?」
トグンの口から出たギュヒョンの名前に、ソンミンは顔をあげた。

「どういう意味?」
「チョ・ギュヒョン……あのクソ野郎が兄貴を!」
「それ、何のこと!?」
どこにそんな力が残っていたのか、ソンミンはトグンの肩を強く掴んだ。急かすソンミンに対し、トグンの口からも辻褄が合わないような言葉が溢れた。
「チョ・ギュヒョンがキム・ヨンウンを殺そうとしてこんな……あいつがわざと危険な仕事をさせて……くそ!」
うまく言葉を言うことができないまま、トグンはソンミンを払いのけて部屋を出た。
そして足の力が抜けたソンミンは、その場に力なくへたりこんだ。
ギュヒョンが……あの人を殺そうと?
『おまえのせいで……そう……だから……俺のことは知らないふりをしろと言ったのに……っ!』
冗談みたいなヨンウンの言葉が耳に響き、ソンミンは再び、狂ったように立ち上がった。
*
やけ酒したバーガンディーのせいで、喉が焼けるように痛んだ。洗面台の前に立ち、何度冷たい水で顔を洗っても、冷たくなるのは水に触れる瞬間だけで、また熱く燃える顔が熱く傷んだ。
ギュヒョンは蒼白した頬の上にまだら模様についた水滴を拭った。鏡に映った自分は日が経てば経つほど疲れていき、醜くなっていくばかりだった。ぼさぼさの髪としわになった上着。悪魔のような頬の上に深く刻まれたしわに、稚拙なわがままと融通の効かない不安が溢れているようで、ギュヒョンは強く頬をこすった。一瞬にして皮がむけるように赤く火照る。
ギュヒョンは溜息を漏らした。
まだ正確な判断がつかない。いつも自分が正しいと信じて何もかも処理してきたのに、今回のことはどんなに考えても、善と悪の区別がつかなかった。いつも自分に対して抱いていた絶対的な自信さえ尽きて、状況をひっくり返す。
――正しい。正しい。俺が正しい。これは俺のものを奪おうとしたキム・ヨンウンに対する正当な復讐だ。
洗面台に身体を預けたまま、ギュヒョンは口の中で呪文のように繰り返した。しかしどんなに吐き出しても、心は落ち着かず、むしろ憂鬱になる気分だった。
今頃、キム・ヨンウンは死んでいるだろうか。冷たいアスファルトの地面に倒れている、強靭な彼の肉体を想像した瞬間、また生臭い吐き気が込み上げてきて、ギュヒョンは便器を掴んで何度も腹の中にあるものを吐き出した。一日中何も飲み込めず、黄色い胃液だけが便器に沈んだ。
何度洗い流しても綺麗にならない気がした。何十回もうがいを繰り返し、歯を磨いた。磨いても磨いても綺麗にならない。乱暴な歯磨きに傷ついた歯茎のせいで、ギュヒョンは真っ赤な泡を洗面台に吐き出した。
「汚いぞ、チョ・ギュヒョン」
ギュヒョンは呟いた。
失敗したことも奪われたこともないが、自分に対してそんな言葉を吐いたことは尚更なかった。いつも上に立ち、汚らわしい身体で商売をしている人間たちを非難するのに使っていた冷徹で正義に満ちた理性が、今日は自分に向かって刃を立てた。汚い。汚いぞ。洗面台を掴んで頭を落とすと、眼の前があっという間にぼんやりと変わった。
ドン!
そのとき、荒々しくドアが開き、閉まる音がして、ギュヒョンは自然と顔を上げた。そこには殺気立って自分を睨んでいるソンミンがいた。息を切らして激しく呼吸するソンミンの肩が上下する。ソンミンの真っ白なシャツは真っ赤な血に染まっていて、手も顔も血がこびりついていた。
「おまえ、一体……」
ギュヒョンがソンミンの格好に驚いたのと同時に、
「おまえなのか!?」
ソンミンが怒鳴った。
トイレという狭い場所に、ソンミンの声は残忍にギュヒョンの鼓膜に入り込んだ。
「おまえがやったんだろ! おまえが……おまえがあの人を殺そうとしたんだろ!」
「ッ!!!?」
汚れた恥部を世界で一番見られたくない人にひとつ残らず暴かれた。傷だらけの胸を開かれ、血を流し続けていた心臓を取り出された。困惑と羞恥心に覆われたギュヒョンの顔に、ソンミンがゆっくりと近寄った。一歩一歩近づくたびに、首を締め付けられるようなきついソンミンの瞳が耐えられなくて、ギュヒョン目を閉じた。殴られても文句は言えない。嫉妬で何も見えなくなり、人を殺そうとしたのだ。自分の一番大切な人が、誰よりも愛している人を殺そうとしたのだ。殴られれば、この憂鬱な気分も晴れるかもしれないとギュヒョンは思った。
が、待っても待っても、ソンミンは殴ってこなかった。不思議に思って開いた目に入ってきたものは――。
「ソンミン!!」
その瞬間、ギュヒョンは息が止まるかと思った。
いつか、ソンミンの真っ白な手首を深く切ったカミソリが再び、ソンミンの折れた手首の上に乗っていた。手に力をいれると、カミソリが真っ白な肉をまっぷたつにえぐり、真っ赤な血が流れ出た。
痛くないのだろうか。ソンミンは再び手首を切った。光が反射してカミソリが虹色にきらめく。そしてまた度綺麗な弧を描きながら、ソンミンはカミソリを手首に降ろす。手首から溢れ出る血はまるで、ギュヒョンの罪の償いをソンミンが身代わりにしているようだった。機械的にまた手をあげるソンミンの腕を、ギュヒョンは荒い力で引っ張った。
「放せ! 放せよ!! 死ぬことまで僕の思い通りにできないようにするの? 放して! 放して!!!」
「……っ……やめてくれ……もうこんなことやめてくれ……」
「ギュヒョンが悪いんだ。放せ! 僕だけ悪い奴になればいいのに! どうしてギュヒョンまで悪いやつになろうとするの!? ……僕が死なないと、ギュヒョンが死ぬつもりなんでしょ!?」
ギュヒョンは、声を張り上げるソンミンの細い体を抱きしめた。おとなしく胸に抱かずにじたばたともがく弱い力に涙が出た。頬を伝い流れるものは相変わらず体温よりも熱く、頬が煮えるようだった。涙を流してはっきりしはじめた視界が、今、自分が諦めならないものが何なのかを教えてくれるようだった。
「やめてくれ、こんなこと……ソンミン……俺が……俺が悪かった……」
「放せ!」
「ソンミン……俺が……俺が全部悪かったよ……」
誰のものなのかわからない嗚咽が混ざり、血と涙でぐちゃぐちゃになった二人の姿は、まるで自分とソンミンの関係そのもののようだとギュヒョンは思った。自分の孤独な唯一の愛はこんな状態だった。歪んでいて奇怪で、ついには血の流しあいになった。
終わらせなければならない。最初から自分のわがままで始まった関係だ。会ってはいけなかったのだ。同情してはいけなかったのだ。心を奪われてはならなかったのだ。結局、諦め方がわからずに、こんなにぬかるんだ血を流してしまったのだ。
俺がおまえを諦めるから……おまえの好きなところへ行かせてやるから……大好きなジャンキー……。
ネズミが拠点にしているクラブは、ネズミの縄張りの中心にあった。華麗なネオンサインが煌めくクラブの正門とは反対に、裏門は真っ暗な路地裏にあった。これまでのネズミの行動パターンから推測するに、やつが裏門から出てくることは間違いなかった。ネズミが出てくるのを待ちながら、カンインは真っ暗な路地裏の角に身を隠していた。
柄にもなく、高鳴る胸の音が鼓膜が破れるほど聞こえていた。いつもなら手下のやつらが震える声で「兄貴、生きて帰れたら一番したいことはなんですか?」と聞いてくれるのだが、今日は聞いてくれる人もいないので、ひとりで聞いて答えてみた。
「生きて帰れたら、一番したいことは何ですか?」
そうだな――。
その瞬間、星のように煌めきながら頭を過った儚いジャンキーの残像に、カンインはにやりと笑いながら、胸ポケットに手を伸ばした。フィリップ・モリスが入っていた。残っていたのはぴったり2本だ。1本取り出して火をつけると、外国製の硬い煙草の味が広がった。ジャンキーの匂いのように毒があってひりひりした。初めて吸うわけではないが涙が出るほど喉が詰まり、半分も吸えずに地面に捨ててしまった。
手から染み出るべとついた汗に、手の平が濡れている。ついさっきズボンの裾で拭った気がするのに、またこのざまだ。天下の狂犬カンインも緊張することがあるらしい。習慣的に見上げた空は、一層荒くなった風に星さえ消えた真黒な夜空だった。そのとき、クラブの裏門から誰かが出てきた。ネズミだった――。
噂通り、ネズミの周りには図体の大きな部下が6人いた。ごくり息を飲む音が際立って大きく聞こえる。ひっそりと沈黙を守る夜空よりも真っ暗な暗黒に染まった残忍な死というやつが、瞬く間にカンインを包囲した。果てしなく膨らむ緊張を落ち着けるために、腰からナイフを抜き、ゆっくりと回した。円を描く手がだんだんピッチをあげて早くなる。息が苦しくなる。カンインは姿勢を低めて、ネズミのほうをうかがった。
周囲をうかがい首を傾げていたネズミが手ぶりをした。それに忠実についていくネズミの部下たちは、よく訓練された飼い犬のようだった。ネズミが何かを言うと、部下4人が同時にうなずき、揃って路地を抜けていった。
一瞬にして、ネズミと部下2人だけになった。ネズミは部下2人と何か冗談を言っているらしく、卑劣な笑い声がカンインのところまで聞こえてきた。チャンスは今しかない。
円を描いたナイフをぎゅっと握りしめ、薄暗い街灯の下に出た。身体の一部であるかのように使い慣れたナイフが長い弧を描いた。
真っ赤な鮮血が飛び散った。カンインがたくさんの戦場から死なずに生き残れた理由は、人を刺す時の躊躇いのない冷徹な決断力と、無駄のない正確な動作にあった。カンインが腹部に深く刺したナイフに、部下のひとりが音もなく倒れた。運が良かった。まともに急所に刺さったらしく、倒れた部下は倒れたまま白目を向いて震えていた。
「クソッ!!! 狂犬カンイン!?」
奇襲を予想していなかったのか、薄暗い街灯に照らされたネズミの顔にやつれた青白い気配が浮かんだ。
ネズミのチューチュー鳴くような悪あがきに、カンインは後ろを振り向いた。シャッという何かが切れ音と共に、脇腹が虚ろになった。幸い刺されたのではなく掠っただけのようだった。血が溢れ出る脇腹が赤黒く染まっていったが、不思議なことに痛みは感じなかった。
もう一人の部下が、恐れ知らずにもカンインの懐にナイフを突き付けてきた。カンインはナイフを握りなおすと、その首筋に素早く正確にナイフを刺した。そうなることを予想できなかったのか、最後の顔に浮かんだ表情はうろたえそのものだった。
ナイフを抜くのが大変だった。カンインが男の首からナイフを抜くと、鈍い気管から噴水のように血が噴き出た。頭からどっと溢れ出る血は瞬く間に全身を覆った。首筋を切られた男はドスンと鈍い音を立てて、アスファルトの地面に倒れた。鼻先をかすめる腐った匂いが血なのか、体臭なのか区別もつかなかった。そして……残ったのはひとりだ。
腹から流れる血のせいか、それとも前髪からぽたぽた落ちる敵の血のせいなのか、視界がよく見えなかった。真っ赤なスクリーンだけが視界を占領していた。あっという間に自分の仲間2人を倒されたネズミの顔には死相が浮かんでいた。
にやりと開いたネズミの口から、何やら形容できない単語が零れ出た。ネズミが笑った。卑劣で腐ったように真一文字に噛み合った唇の端が上がった。どこかの誰かのように他人の血を浴びて生きる、惨くてあくどい悪魔のようだった。ネズミが悪態をつく声が鼓膜に響いた。腹からの出血が多いのか、カンインは目眩を感じた。
――これが最期だ。運が良ければネズミの腹に俺のナイフが刺さり、運が悪ければ俺が死ぬ。ヤマナラシのようにぶるぶる震えたネズミの手にも何かが握られていた。運が良ければナイフで、運が悪ければ拳銃だが、どちらでも関係ない。どちらにしても死ぬ命だ。ネズミ一匹退治してから逝けば、俺より先に死んでいった仲間たちの魂の慰めにもなるだろう。
すっかり血に染まったカンインの身体がぎしぎしと音を立てながらネズミに飛びかかった。走れば走るほど現実感がなくなり、足取りは速まった。ネズミの腹部を狙ったナイフが、柔らかな場所にぶすりと刺さった感覚がした。それと同時に、
「あ゛ぁっ!!!」
カンインはすさまじい悲鳴をあげた。自分の腹部に刺さった何かが抜かれる感じがした。さっき切られた場所を、また刺されたらしい。卑劣なネズミの最期の悪あがきだった。それを認識した瞬間、カンインは力なく膝から崩れ落ち、がくりと視界がと下がった。ネズミの手に握られたナイフには真っ赤な血がべっとりとついていた。喉元に吐き気が上ってくるのと当時に、視界がぐるぐると回った。ネズミは握りしめたナイフを怯えた目で見下ろして、そしてどさりと地面に倒れた。ひっくり返ったネズミは、指先までぶるぶる震えていた。しぶとい命だ。目眩がする身体をどうにか支えながら、カンインはズボンに差していた短刀を掴んだ。まだ声を出す力が残っているのか、ネズミはぺちゃくちゃとあがいていた。カンインはすっかり残虐無道な殺人鬼の姿になり果てていた。ネズミの悪態が狭い路地に響いた。自分の部下を呼んでいるのか。騒音のように鳴り響くその声は、カンインの耳にはひとつも入ってこなかった。うるさかった。眩暈がして、胸がむかついた。
真っ青な月明かりに照らされて夜明けのように輝く短刀が、開いたネズミの口に正確に突き刺さった。ネズミの口から溢れ出た血で、カンインの視界はまた真っ赤に染まった。生暖かい腐った匂いがした。どこからそんな力が出たのかはわからないが、カンインはネズミの喉深くに刺さった短刀を抜いた。使い慣れた短刀がぶるぶると震えた。
殺戮が終わった静かな路地裏はたちまち生臭い匂いを漂わせた。出血が多すぎるのか、カンインの視界がまたぐるぐると回った。血が回らない下半身には全く力が入らなかった。自分の身体一つ支えられないカンインは、ありったけの腕の力を使い車のほうへ這っていった。カンインの身体から流れ出た血が路地裏を真黒に染めた。地面が吸収できずに溜まっていく真黒な血だまりをかき分けながら、カンインは車に向かって両手で這っていった。涙なのか血なのか、頬を伝って落ちるものが熱くて、頬が焼けるようだった。
――生きて帰れたら、一番したいことは何かって? そうだな……。
カンインは人生の最期に直面して、ずっと封印してきた自分の気持ちをひっぱり出した。
――生きて帰れたら、おまえに愛してると言いたい。そう……もう意味のない言葉になってしまったけれど。そう言いたい……もう、意味のない言葉になってしまったけれど。
*
どんな意識で事務所まで運転したのかはわからない。痛覚が戻ってきはじめたらしく、深く刺された傷が嫌になるほど痛んだ。噛みしめた唇からは絶えず呻き声が流れた。何度も死の境を行き来しながら生きてきたカンインだが、こんなにも傷が痛むのは初めてだった。こびりついた血のせいで動きにくい。ただでさえ力の入らない身体が、固まったネズミの血に縛られながらもがいていた。
カンインは今の自分の姿がおかしかった。いつも自分の命を投げ捨てて生きてきたはずなのに、いざ死に直面するとこんなにも怖気づいて命を渇望している自分の姿がくだらなく感じられた。しかし自分の姿を嘲笑う力も残っていなかった。何もかもが現実でないようにぐるぐると回った。
エレベーターが7階に到着したことを知らせる信号音も、どこか遠い場所から響いてくるようだった。エレベーターのドアが開くと、カンインはありったけの力を尽くして両手で這っていった。辛うじて傷跡を残そうとするように、身体にいくらも残っていない血が白い廊下に尾を引いた。
そして、カンインの腕が止まった。必死に腕で支えていた身体が沈むのと同時に、ドスンと廊下の床に額をぶつける音が自分のものではないかのように固く鳴り響いた。冷たい廊下に触れたところから、身体が冷やかに冷たくなっていく感じがした。
カンインは考えた。自分は一体何に期待して最期の力を尽くしてここまで来たのかを。何が原因で、クズみたいな命を伸ばそうと悪あがきをしていたのかを。一体何に未練が残って、狭まる視界を引き戻そうとしていたのかを。だが、何も考えられなかった。複雑にちらつく考えが絡み合って、とうとう真っ白になっていった。
――クソッ。
何もわからない。気だるい身体に眠気が襲ってきた。
果てしなく遠くなっていく視界の中で、何かがパタパタと落ちる音がした。そして大きな足音のあとで、ジャンキーの悲鳴が暗い廊下に鳴り響いた。
――ずっと待ってるから!!
ああ、たった……それだけの理由だったのか。カンインは思った。俺の汚れた人生に未練を残したものは……おまえだったんだな。
*
マンションを出た。約半年も過ごしたとは思えないほど荷物のない両手は、自分がどれだけギュヒョンにもらってばかりで生きてきたかを物語っているようだった。恥ずかしい両手を隠すように、ソンミンは飾り棚の中のフィリップ・モリスを全部胸に抱えた。最後だから、これくらいのことならギュヒョンは許してくれるだろうと思った。
家一軒分ぐらいに膨らんだ後悔はあまりにも遅くやってきて、満ち潮のようにソンミンを倒した。ギュヒョンが見送る前に、自分の足でさっさと出発できなかったわがままな自分に鳥肌が立った。
ギュヒョンはいつもまっすぐでさっぱりしていて綺麗だった。真っ白だった。ソンミンにとって世界の素敵な言葉達は何もかもギュヒョンのためのものだった。ソンミンは初めて会った時から、本能的にわかっていたのかもしれない。ギュヒョンが自分と違う世界の人間だということを。
人は皆、そんなふうに自分と違う世界の人間に対して好奇心を抱く。そして判断する。憧れか、それとも軽蔑か。ソンミンはギュヒョンに憧れていた。しかしソンミンがその延長線上から伸ばされた白い手を掴むことは、ギュヒョンの破滅を招くということも、ソンミンは本能的にわかっていたのかもしれない。
取り合った手から真っ黒な墨汁が広がっていった。ギュヒョンの生気のない頬を掠め、さっぱりした目の端まで燃えあげる自分の黒い影は、すぐにギュヒョンを蝕んでいった。だから去らなければならなかった。ギュヒョンは存在そのものが自分とは違う人間だった。だから、ギュヒョンを愛することはできなくて、目を合わせるのもつらかった。そんな時間はもう終わらせなければならなかった。ギュヒョンを食いつくそうと飛びかかる自分の暗黒を消さなければならなかった。だから自分から去るのだ。これ以上、完璧なギュヒョンがだめにならないように。いや、自分の宿命のような暗闇に染まってゆくギュヒョンを見ないために。僕という人間はこんなにもわがままでずるがしこい。
笑えることに、マンションを出た足は自然と彼の事務所に向かった。
深い夜は事務所の廊下にも例外なく入り込んでいて、少し先も見えないくらいの暗闇にひっそりと染まっていた。事務所のドアはカギがかかっているかもしれないが、その前でずっと身を縮めて待っていれば、いつかは彼が開けてくれるだろう。そして僕は両腕を広げ、遠い旅行から帰ってきた彼の首に抱きつこう。あなたの所にきたよと。彼は今度こそ、僕を振り払ったりしないはずだ。胸に溢れる彼を想像するだけで、僕はこんなにもうっとりする。そのときだった。
ズシン!
何かが床にぶつかる音がした。妄想の隙間に入り込んだ鈍い騒音で、沈黙を守っていた周囲がひんやりと崩れ落ちた。胸にぎっしりと抱えたフィリップ・モリスが、ソンミンの腕からばらばらと零れた。何も見えないが、鼻先を掠める生臭い匂いに、不吉な気配が這いあがってきた。ソンミンは音のしたほうへ向かった。暗闇に慣れた瞳にシルエットが入ってきて、足取りがゆっくり遅くなった。何かが足元で跳ねて、ねばねばとズボンのすそを掴んだ。その瞬間、足の力がふっと抜けて、ソンミンは崩れるようにへたり込んだ。指の間にねばねばと暖かなものが触れた。ソンミンは両手を上げて、目の前に持っていった。
「う゛わ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛っ゛っ゛!!!!!!!!!」
目の前に溢れた血に、一瞬にして息が止まった。獣のように四本の足で這った。染みこめない床に溜まった血だまりが指先に満ちた。 ソンミンは死んだように倒れているヨンウンに手を伸ばした。目が見えないように手探りで宙を徘徊していたソンミンの指が、やっとヨンウンの顔に触れた。ぶるぶる震える指先がヨンウンの綺麗な鼻筋と眼の下にある傷を確認するように、乱暴に触れた。触れた指先から冷たさが伝わってくるようだった。
「あ゛あ゛っ……!!! キム・ヨンウン!!!!!!!!!」」
嗚咽が起こるのと同時に、ソンミンは荒々しく彼の頭を抱きしめた。彼と触れた部分は確かに暖かいのに、冷たい冷気が這い上がってくるようだ。血生臭い匂いと床に溢れた腐った血に、みぞおちの先から吐き気が込み上げた。吐き気に混じって悲鳴が出た。彼の前髪についた血の粉がぱらぱらと落ちた。
「キム・ヨンウン!!!!! あ゛ぁ゛っ゛……キム・ヨンウン!!!!!!」
身体が裂けるほどありったけの声でわめき散らしながら呼んでも答えはない。握りしめた両手で心臓を叩いても、どんなに肩を揺らしても返事がない。
「誰か……誰か!! 誰かいませんか!?」
込み上げてくる涙が蒼白となった頬を伝って、ヨンウンの上にぽたりぽたりと落ちた。涙は彼の痩せた顔の上に振り撒かれた。ソンミンは生き返ることなく、死んだにように横たわっているヨンウンの頭を抱きしめて嗚咽した。いっそ遠くに行ってくれればよかったのに、どうして戻ってきたんだ。こんな有様で帰ってきて、どうして死んだように寝ているんだと聞いても、彼は何も答えない。
そのときだった。
「どうして泣いているんだ?」
ソンミンははっとして下を向いた。痛みに勝てずに眉をしかめながら、ヨンウンはソンミンを見た。そしてまた目を閉じる。
「うるさくて……寝ていられないな」
目を閉じたヨンウンの唇が言った。
「キム・ヨンウン! 大丈夫? 大丈夫なの?」
「今夜はどうしてここにきた?」
「どうして……どうして……どこでやられたの?」
「おまえのせいで……そう……だから……俺のことは知らないふりをしろと言ったのに……っ!」
お互いに対する気持ちが溢れて噛みあわない会話が、カンインの呻き声で断たれた。
苦痛で大きく上下する肩に、ソンミンはまたヨンウンの顔を抱きしめた。目尻から流れ落ちる涙がヨンウンの顔の上に落ちた。ヨンウンの唇が苦々しく笑った。
「泣くなって言っただろ……話も……ちゃんと聞けないんだな……バカ野郎……」
「……ヨンウン、大丈夫?」
ヨンウンは言葉を言うのが辛そうで、吐き出す息が不規則だった。
「トグンを呼んできてくれ……下の階にいるはずだ……」
ヨンウンは涙に濡れたソンミンの頬に触れたかったが、そんな力は残っていなかった。ヨンウンはありったけの力を尽くして、微かに唇を持ち上げ、ソンミンを押した。ヨンウンの言葉にもたもたと立ち上がったソンミンが震えながら這うように出ていった。
まだソンミンの悲痛な鳴き声が耳元に溢れている。ぼんやりと視界が狭まっていくのに、ソンミンが自分の名前を呼びながら泣き叫んだ瞬間、不思議と目が開いた。
おまえのために死んでやろうとしたのに、どうしておまえが俺を助けるんだ……。神様はときどき……おかしなことをするものだ。
*
コンコンコン。
事務所のソファに身体をまるめて 眠っていたトグンの耳に、壊れるくらいに激しくドアが叩く音が聞こえた。
やかましい音に、トグンははっと目を覚ました。
――こんな真夜中にどこのどいつだよ……。
顔をしかめながらドアを開けた瞬間、何かが胸に飛び込んできた。涙に濡れた眼でトグンを見上げていたのはソンミンだった。いつも澄んでいた顔が血なのか涙のかわからないものでめちゃくちゃになっていて、真っ白だったはずのプレーンTシャツは血に染まっていた。そしてイ・ソンミンはまるで精神病患者のように、ぽつりぽつりと辻褄があわない言葉を吐き出した。
「た…助けて…」
「はい? あの……」
「助けて下さい、キム……キム・ヨンウンを助けて……」
「なんですって?」
「上の階に……いるんです……血が……助けて……」
ソンミンの痩せた身体がトグンの腕を握りしめながら、ぽつりぽつりと言葉を吐き出した。トグンは目がくっつくくらいに眉をひそめ、顔をしかめた。おおまかな状況を把握したトグンの口から、独り言のように言葉が漏れた。
「チョ・ギュヒョン……あいつ!」
「え?」
トグンの口から出たギュヒョンの名前に、ソンミンは顔をあげた。

「どういう意味?」
「チョ・ギュヒョン……あのクソ野郎が兄貴を!」
「それ、何のこと!?」
どこにそんな力が残っていたのか、ソンミンはトグンの肩を強く掴んだ。急かすソンミンに対し、トグンの口からも辻褄が合わないような言葉が溢れた。
「チョ・ギュヒョンがキム・ヨンウンを殺そうとしてこんな……あいつがわざと危険な仕事をさせて……くそ!」
うまく言葉を言うことができないまま、トグンはソンミンを払いのけて部屋を出た。
そして足の力が抜けたソンミンは、その場に力なくへたりこんだ。
ギュヒョンが……あの人を殺そうと?
『おまえのせいで……そう……だから……俺のことは知らないふりをしろと言ったのに……っ!』
冗談みたいなヨンウンの言葉が耳に響き、ソンミンは再び、狂ったように立ち上がった。
*
やけ酒したバーガンディーのせいで、喉が焼けるように痛んだ。洗面台の前に立ち、何度冷たい水で顔を洗っても、冷たくなるのは水に触れる瞬間だけで、また熱く燃える顔が熱く傷んだ。
ギュヒョンは蒼白した頬の上にまだら模様についた水滴を拭った。鏡に映った自分は日が経てば経つほど疲れていき、醜くなっていくばかりだった。ぼさぼさの髪としわになった上着。悪魔のような頬の上に深く刻まれたしわに、稚拙なわがままと融通の効かない不安が溢れているようで、ギュヒョンは強く頬をこすった。一瞬にして皮がむけるように赤く火照る。
ギュヒョンは溜息を漏らした。
まだ正確な判断がつかない。いつも自分が正しいと信じて何もかも処理してきたのに、今回のことはどんなに考えても、善と悪の区別がつかなかった。いつも自分に対して抱いていた絶対的な自信さえ尽きて、状況をひっくり返す。
――正しい。正しい。俺が正しい。これは俺のものを奪おうとしたキム・ヨンウンに対する正当な復讐だ。
洗面台に身体を預けたまま、ギュヒョンは口の中で呪文のように繰り返した。しかしどんなに吐き出しても、心は落ち着かず、むしろ憂鬱になる気分だった。
今頃、キム・ヨンウンは死んでいるだろうか。冷たいアスファルトの地面に倒れている、強靭な彼の肉体を想像した瞬間、また生臭い吐き気が込み上げてきて、ギュヒョンは便器を掴んで何度も腹の中にあるものを吐き出した。一日中何も飲み込めず、黄色い胃液だけが便器に沈んだ。
何度洗い流しても綺麗にならない気がした。何十回もうがいを繰り返し、歯を磨いた。磨いても磨いても綺麗にならない。乱暴な歯磨きに傷ついた歯茎のせいで、ギュヒョンは真っ赤な泡を洗面台に吐き出した。
「汚いぞ、チョ・ギュヒョン」
ギュヒョンは呟いた。
失敗したことも奪われたこともないが、自分に対してそんな言葉を吐いたことは尚更なかった。いつも上に立ち、汚らわしい身体で商売をしている人間たちを非難するのに使っていた冷徹で正義に満ちた理性が、今日は自分に向かって刃を立てた。汚い。汚いぞ。洗面台を掴んで頭を落とすと、眼の前があっという間にぼんやりと変わった。
ドン!
そのとき、荒々しくドアが開き、閉まる音がして、ギュヒョンは自然と顔を上げた。そこには殺気立って自分を睨んでいるソンミンがいた。息を切らして激しく呼吸するソンミンの肩が上下する。ソンミンの真っ白なシャツは真っ赤な血に染まっていて、手も顔も血がこびりついていた。
「おまえ、一体……」
ギュヒョンがソンミンの格好に驚いたのと同時に、
「おまえなのか!?」
ソンミンが怒鳴った。
トイレという狭い場所に、ソンミンの声は残忍にギュヒョンの鼓膜に入り込んだ。
「おまえがやったんだろ! おまえが……おまえがあの人を殺そうとしたんだろ!」
「ッ!!!?」
汚れた恥部を世界で一番見られたくない人にひとつ残らず暴かれた。傷だらけの胸を開かれ、血を流し続けていた心臓を取り出された。困惑と羞恥心に覆われたギュヒョンの顔に、ソンミンがゆっくりと近寄った。一歩一歩近づくたびに、首を締め付けられるようなきついソンミンの瞳が耐えられなくて、ギュヒョン目を閉じた。殴られても文句は言えない。嫉妬で何も見えなくなり、人を殺そうとしたのだ。自分の一番大切な人が、誰よりも愛している人を殺そうとしたのだ。殴られれば、この憂鬱な気分も晴れるかもしれないとギュヒョンは思った。
が、待っても待っても、ソンミンは殴ってこなかった。不思議に思って開いた目に入ってきたものは――。
「ソンミン!!」
その瞬間、ギュヒョンは息が止まるかと思った。
いつか、ソンミンの真っ白な手首を深く切ったカミソリが再び、ソンミンの折れた手首の上に乗っていた。手に力をいれると、カミソリが真っ白な肉をまっぷたつにえぐり、真っ赤な血が流れ出た。
痛くないのだろうか。ソンミンは再び手首を切った。光が反射してカミソリが虹色にきらめく。そしてまた度綺麗な弧を描きながら、ソンミンはカミソリを手首に降ろす。手首から溢れ出る血はまるで、ギュヒョンの罪の償いをソンミンが身代わりにしているようだった。機械的にまた手をあげるソンミンの腕を、ギュヒョンは荒い力で引っ張った。
「放せ! 放せよ!! 死ぬことまで僕の思い通りにできないようにするの? 放して! 放して!!!」
「……っ……やめてくれ……もうこんなことやめてくれ……」
「ギュヒョンが悪いんだ。放せ! 僕だけ悪い奴になればいいのに! どうしてギュヒョンまで悪いやつになろうとするの!? ……僕が死なないと、ギュヒョンが死ぬつもりなんでしょ!?」
ギュヒョンは、声を張り上げるソンミンの細い体を抱きしめた。おとなしく胸に抱かずにじたばたともがく弱い力に涙が出た。頬を伝い流れるものは相変わらず体温よりも熱く、頬が煮えるようだった。涙を流してはっきりしはじめた視界が、今、自分が諦めならないものが何なのかを教えてくれるようだった。
「やめてくれ、こんなこと……ソンミン……俺が……俺が悪かった……」
「放せ!」
「ソンミン……俺が……俺が全部悪かったよ……」
誰のものなのかわからない嗚咽が混ざり、血と涙でぐちゃぐちゃになった二人の姿は、まるで自分とソンミンの関係そのもののようだとギュヒョンは思った。自分の孤独な唯一の愛はこんな状態だった。歪んでいて奇怪で、ついには血の流しあいになった。
終わらせなければならない。最初から自分のわがままで始まった関係だ。会ってはいけなかったのだ。同情してはいけなかったのだ。心を奪われてはならなかったのだ。結局、諦め方がわからずに、こんなにぬかるんだ血を流してしまったのだ。
俺がおまえを諦めるから……おまえの好きなところへ行かせてやるから……大好きなジャンキー……。










