朝に事務所に戻ってくると、ジャンキーはいなくなっていた。よかったと安心する頭とは反対に、心は空しくてカンインは深く溜息をついた。
昨日のジャンキーが流した血の跡が床に飛び、片づけられなかった救急箱がテーブルの上に散らかっていた。
何があったのか。心配が先だった。完治していない体でどこに行ったのか。どこに行くために、どこに行ったのか。自分の御主人様のところに行ったのか。
でたらめな性格に尻込みしながら笑ったカンインが、胸ポケットで一日中音を立てていたフィリップ・モリスを取り出した。大切なものを扱うように一度優しく撫でた。
「キム・ヨンウン」
ギュヒョンがカンインを訪ねてくることは珍しかった。ギュヒョンはカンインに出会うことを病的に嫌っているようだった。しかしカンインは気にしていなかった。普通人間というものは、自分と違う世界の人間に酷い嫌悪感かは熱心な羨望を表すもので、自分は嫌悪の対象に分類されたのだと思った。それなのに、何の用かギュヒョンが直接訪ねてきた。
乱れた髪としわになった洋服の上着がギュヒョンらしくなかった。その上、げっそりと疲れた頬は病弱なジャンキーに似ていた。一緒に住んでいると似てくるとはまさにこのことだ。
「どうしたんだ?」
ギュヒョンは答えなかった。ギュヒョンの視線が、カンインが大切そうに撫でているフィリップ・モリスに留まった。カンインはフィリップ・モリスをポケットの中に放り込んだ。ギュヒョンはフィリップ・モリスが置かれていた場所の温もりを確認しようとするように、一度手の甲で撫でた。そして聞いた。あくどく鳴る声にカンインはもう一度ぴくりと笑った。
「中央クラブを拠点にネズミが動き出した。やられる前に、おまえが先に潰せ。ネズミの首を取れば済むことだ」
「…………わかった」
「……こっちのやつらがこっそりと隠していることがばれたら台無しだ。だから……おまえひとりで行ってネズミの頭をつぶしてこい」
ネズミは敵対組織の中間ボスだった。カンインやギュヒョンの縄張りと背中を合わせていて、小さな紛争が絶えず起きていた。組織にとって厄介なネズミは、まさにネズミらしく抜け目なく卑劣で、簡単には消えてくれなかった。何度も攻めたがことごとく失敗した。ネズミは、手下たちの血がついた指と一緒に嘲笑を送ってきた。勘がいいネズミ――。そうでなくても最近やつらの不意打ちを食らうことが多かった。ネズミは元気な手下を六人も連れて歩いていた。
――そんなときにネズミに接触しろだと?
それもひとりで。死ねと言っているようなものだった。
――だから俺が、恋人をちゃんと見張っておけと言ったんだ。
自分を死に場所へと追い払うギュヒョンの言葉に、カンインは笑った。ギュヒョンが歯ぎしりするほど嫌っている陰湿さが隠れた笑みだった。
「わかった」
間抜けな野郎だ――。
自分の命令にありのままに従う必要もないキム・ヨンウンが快く承諾した。
俺の明らかな殺意がわかっているくせに。だから俺は、おまえが死ぬほど大嫌いなんだよ――。
*
相手は勘がいいネズミであるだけに、仕事を続行させることが重要だった。ネズミの除去命令を受けた翌日、俺は行動を開始した。死にに行くのは明らかだったが、不安はひとつもなかった。いつものことだが、クズみたいな自分の人生に未練はなかった。
朝早く起きて、鋭く磨いたナイフ二つを腰に挟み、もしものときのためによく磨いたナイフをもうひとつ、折り返しのところにしまいながらも、不安という感情は全く湧かなかった。運よくネズミをやり込めたとしても、何重にも取り囲まれたネズミの巣から無事に帰ってくることは困難だろう。それなのに、直面した死がむしろ慌てるくらいに、俺は平然としていた。
だが何かが気になった。血痕がところどころ落ちている床を見る度に、テーブルの上に相変わらず片づけられずに伸びている包帯を見る度に、みぞおちの端に何かがぎゅっと引っかかるように、重苦しく頼りない感じがした。憂鬱な胸を撫でた。喉に引っかかってべたべたするものが何なのかわからなかった。いい加減に脱ぎ捨てた服のように積もりゆく憂鬱が肺を抑えつけて、自然と溜息がこぼれた。
さっと服を着てテレビをつけたが、K-1の再放送に全く興味がわかず、すぐに消してしまった。
しばらくぼんやりとソファにもたれながら、トグンや部下たちに挨拶をしなければと思った。ソファから立ちあがり、事務所のドアを開けようとした。が、ドアは軋んで開かなかった。力を入れてドアを押すと、喉をふさいでいるそれのように、通路をふさいだジャンキーがいた。昨日よりも嘆かわしい顔に、自然と溜息が出た。真っ青に腫れた頬と血がついた唇、沈んだ目つきがどうしようもないほど物寂しかった。
「どけ」
床に座り込んでいたジャンキーは、俺の顔を見るなりさっと立ち上がった。ジャンキーは俺の腕にくっつこうと手を伸ばしてきたが、今日はやつの思い通りにはしてやれなかった。腕にしがみつくジャンキーを強く振り払うと、ジャンキーはばたりと音を立てて床に倒れた。いい場所に行き、よく食べてちゃんと生きていると思っていたおまえは、どうして会う度に病弱になり、衰えていくのか。ばかな俺には到底理解できない。
死んだようにひっくり返っているジャンキーの横を通り過ぎようとしたとき、胸ポケットから聞き慣れない音がした。フィリップ・モリスだった。俺は唇を噛みしめた。みぞおちに引っかかっていたものが何なのか、わかったような気がした。
「おい」
俺は足でジャンキーをつつき、揺らした。ジャンキーの両手を取って起こそうとしたが、片方の手首が脈もなくぽきりと折れて、やつはまた床に倒れて痙攣した。俺は、自分の身体ひとつまともに支えられない哀れなジャンキーの片腕を掴み、荒々しく持ち上げた。乱暴な力に強制的に起こされたジャンキーは萎れた花のようだった。俺に全身を預け、茎の折れた花のようにふらつきながら立ち上がったジャンキーを事務所の壁にもたれかからせた。どしんと壁にぶつかったジャンキーの肩が硬直した。
「二度とここには来るな」
そんな言葉を吐き出しながら、俺は煙草が欲しい気分だった。煙草が入っている胸ポケットに触れると、ジャンキーのフィリップ・モリスが入っていたが、吸いたくなかった。
そういえば、いくらクズのような俺でも、形見ひとつくらいはなければならないんじゃないかなんて、自嘲的な笑いが出た。
「どうして?」
俺の言葉に、ジャンキーは枯れた顔を上げて、沈んだ目で聞いてきた。視線が空中で交わった。
「遠くに行くからだ」
「どこに行くの?」
「遠くだ……」
最後なんだから、少しは親切にしてやってもいいんじゃないか。こんなにも弱いジャンキーに冷たくしていたことが、今さらだが申し訳なかった。最初からすまないことだらけだったが、今日に限っては余計にそう思った。人は死ぬ時になると、不思議な真似を多くすると言うが、今の自分がまさにそうだった。
「遠くってどこ?」
「とにかく遠くだ。おまえの知らない場所だ。だからもうここには来るな」
ジャンキーは俺がいなくても、息が詰まる廊下に身体を縮めて座り、冷たい夜明けを迎えながら俺を待ち続けるだろう。そんなジャンキーに、どんなに冷たく鈍い俺でも一言言ってやらなければならなかった。そうしなければ、俺が行く道が晴れないと思った。俺なんか待たないで、ギュヒョンと幸せに暮らせと言ってやらなければならなかった。だが、俺にはどうしてもその言葉が言えなかった。ジャンキーは、俺の言葉を理解できないように小首を傾げていた。夜明けの日差しを受けたジャンキーが眩し過ぎて、俺は直視できなかった。
最後だから、小さなわがままを言ってみてもいいだろうか――。
「笑ってくれ」
急な俺の言葉に、ジャンキーはもう一度小首を傾げた。そして、笑えと言う俺の催促に、無理に笑顔を作った。血のついた唇が惨たらしく伸び、あざのついた頬が奇妙に震えて、沈んだ目を細めた物悲しい笑顔だったが、あまりにも眩かった。六月の太陽のように愛らしく輝くジャンキーの前で、俺は何も言えなかった。
おまえにとって、俺たちの初めての記憶は、あの暗い部屋でしかないかもしれない。しかし俺にとっての初めての記憶は、そんなふうに明るく笑っている眩しいおまえだったということに、おまえは気づいているだろうか。
生まれて初めて人を好きになった。愛という言葉にはしがたい微妙な熱望の感情だったが、生まれてはじめて手に入れたいと思ったのは、ジャンキーが初めてだった。俺はずっと汚れていたが、死に一歩一歩近づくたびに明らかになってゆく感情は愛だった。俺は無知で、弱々しいおまえを大切に扱う方法も知らず、こんなにもみすぼらしい俺が愛くるしいおまえを欲しがってならないということはわかっている。でも、最後だから。多分最後になるだろうから、一度だけ俺は自分の思ったとおりに考えてみる。おまえがどんな気持ちで俺を訪ねてきたのか。「僕を好きなの?」と聞いたおまえは、俺を好きだったのか。そう。俺は、自分の思ったとおりに確信した。おまえも俺を愛していたのだ、と。多分これが最後だから、たとえ勘違いでも、俺が夢を見たっていいだろう。おまえを無理に手に入れたり、みすぼらしい心を告白したり、そんな醜い真似はしない。ただ、おまえと俺は愛し合っていた。忌々しくも感傷的になった気持ちが止められずに、流れた。
「笑ったほうがかわいい」
「……」
「どこに行っても元気で」
「……どこに行くの?」
「少し煙草をやめて、ちゃんと飯も食え」
「……どこに行くの?」
「チョ・ギュヒョンの言うことよく聞いて、泣かないで……そんなふうに笑いながら生きていけ」
一方的な最後のあいさつを告げ、ジャンキーの肩をぽんと叩いて背を向けようとしたときだった。
「キム・ヨンウン!!!!」
ジャンキーの口から、なぜか聞き慣れない名前が出た。
最後の力を尽くしたように廊下に響き渡る声に、俺は思わず立ち止まった。ふらふらと背中の後ろから届いてきたのは、相変わらずジャンキーの素朴な匂いよりも、ひりひりと辛いフィリップ・モリスの香りだった。
――おまえは俺の名前も知っていたんだな。
背中にもたれる紙切れのような重さよりも、伝わってくるジャンキーの微弱な体温が不安だった。振り払ってしまいたかったが、これが最後なのだからという気持ちにもたれる俺の欲望は、俺の背を超えるくらい膨らんでいた。硬直した俺の身体に、ジャンキーの震える指が触れた。
「僕、毎日事務所に来るから」
うなじに柔らかくしがみついたジャンキーの声が、俺の耳元に触れた。
「ずっと待ってるから!!」
おまえもわかっているのか。俺の心配を。息と鳴き声が混ざって、わずかに震える声が「わかってるよ」と言っているようだった。でも振り返るには遅すぎた。俺はうなじを抱きしめるジャンキーの微妙な体温から静かに遠ざかった。心臓でフィリップ・モリスはまださくさくと音を立て、腰に差したナイフが心臓を刺しているかのように痛かった。だから、俺は幸せだった。
*
ネズミに手を出すことがどれだけ危険なのかは、家族のように心から慕っていた部下たちを何人も失ってきたカンインが、一番よくわかっていた。そして、失ってきた部下たちと同じように、自分もまた今、失われようとしているということも。だからカンインは拒否しなかった。むしろ喜ぶように平然とした微笑み浮かべながら、ギュヒョンの明白な殺意におとなしく従った。ギュヒョンはそんなカンインが窮屈だった。いっそカンインが悪い人間なら、複雑に絡まった感情は遥かにマシになると思った。
カンインに命令した後、ずっと気分が優れなかった。ギュヒョンの荒々しい暴力に諦めたように従いながら目を閉じたジャンキーがそうで、ギュヒョンの明白な殺意に平然と従いながら笑みを浮かべたカンインがそうだった。腹がひっくり返るほど腹立たしいばかりだった。ギュヒョンはこめかみをとんとん叩きながら、椅子にもたれた。正確な命令はしなかったのでカンインがいつ行動し始めるのかはわからなかったが、できるだけ早ければいいと思った。そうすればこの複雑な頭と気まずい気持ちも少しは和らぐと思った。
ジャンキーに手を出してからギュヒョンは、自分が絶対にジャンキーを傷つけられないのだと知った。そして目標を失った憎しみの矛先はカンインへ向いたのだった。
ギュヒョンはカンインがジャンキーに対してどんな気持ちを抱いているのかは知らなかった。ただ愛らしいジャンキーが無邪気に飛びついてくるから、カンインは笑いながら抱きかかえていたのかもしれない。そして自分の身の程を知ったカンインはジャンキーを諦めたのかもしれない。そう思っていた。
暴君の命令に対し、罪人は大人しく刃を受け、自ら幕を下ろすのだ。罪があるのだから当然のことだとギュヒョンは自分に言い聞かせた。が、ギュヒョンの身体を抑えつけるのは罪悪感だけだった。ジャンキーの腐った目――。 キム・ヨンウンがいなくても生きていけるだろうか。飛躍した考えは、日が経つほど膨らむばかりだった。ソンミンが自殺未遂ではなく、本当に自殺をしてしまうかもしれないという想像をかき消そうと、ギュヒョンは苦労して妄想に蓋をした。
「ギュヒョン様、カンイン様がいらっしゃいました」
秘書の言葉が終わるのと同時に、荒々しくドアを開けて入ってきたのはカンインだった。ギュヒョンは頭をあげた。混乱が混沌になり、ぐちゃぐちゃに踏みつぶされた。カンインはまるで自分の席であるかのようにデスクの前のソファに腰を下ろすと、煙草を取り出し、火をつけた。
汚くて、話も聞けない野郎だ。事務所は禁煙なのに――。
ギュヒョンはそう思ったが、これから最期を迎えようとしている人間にしつこく言うのも嫌だったので、言葉を飲み込んだ。事務所内はすぐにカンインの煙で霞んだ。ぷかぷかと煙草を吸っては煙を吐き、また煙草を吸って、何も言わずに煙草ばかり吸っていたカンインが、突然口を開いた。
「……今日やる」
意外にも早いカンインの決断に、ギュヒョンは眉間にしわを寄せた。自分は何を望んでいるのだろう。カンインは何もかもわかっていて、死んでくれようとしているというのに。
「俺の顔を見るのはこれが最後だ。よかったな」
カンインは言った。
「だから……最後にひとつだけ俺の頼みを聞いてくれ」
そう言ってカンインは、癖のように胸ポケットを撫でた。何が入っているのだろうか、何かががさがさと音を立てた。その音で耳を塞ぎたいくらい、ヒステリックになった感情曲線が急カーブを描きながら曲がった。
「ジャンキー……のことだけど」
ギュヒョンは他人の血を浴びて生きている悪魔のようなカンインの口が、自分の大切なジャンキーについて話すのが、自分の名前を呼ばれる以上に嫌だった。が、最後だから大目に見た。
「……うまくやってくれ」
カンインは言った。
(やっと言いたかった言葉がそれか?)
野良猫みたいに逆立った毛が垂れた。急速に襲ってきた虚しさに、全身の力が抜けた。カンインは恥ずかしそうに笑った。冷たい印象があっという間に穏やかになり、初めて見る彼の素直な微笑みに腹がよじれた。喉を上ってくる吐き気に、ギュヒョンは口を押さえた。突然口を塞ぎ、うつむくギュヒョンを見て、カンインの表情が微妙に変わった。
(おまえもジャンキーのことを気にしていたのか……)
一瞬にして可哀想な二人の恋人たちを妨げる巨大で悪辣な障害物でしかなくなったギュヒョンは、唇を歪めた。
「おまえ……」
またそのむかつく口からギュヒョンを指す言葉が出たのと同時に、ギュヒョンは素早く口を塞いで事務所の隅にあるトイレに走った。ギュヒョンは便器の端を掴み、吐いた。腹は無惨なほどひっくり返るのに、出てくるものは涙しかなかった。追ってきたカンインの手が困ったようにためらいながら、ギュヒョンの背中に触れた。とんとんと背中を叩くその分厚い手つきが残酷だった。嗚咽をあげながら出るものもなく、ギュヒョンの喉からはひよわな音ばかりが涙と一緒に溢れ出た。
「頭の悪い俺よりは、賢いおまえのほうがジャンキーによくしてやれるだろ」
ギュヒョンの背中を叩きながら、カンインが言った言葉はそんなものだった。自分はなんて残酷なのだろうとギュヒョンは思った。ジャンキーと同じで、カンインはギュヒョンを全て理解すると言うような態度だった。
(おまえを殺してしまいたい俺の粗悪な殺意を、おまえは理解するのか?)
だからギュヒョンは残酷さを感じた。
*
トグンはいつも大袈裟だった。「みんなを頼む」というカンインの言葉に最後を直感したのか、カレイのように尖った眼をまんまるに開き、ぶるぶる震える声で「兄貴、どういう意味です?」と聞いてきた。頭は大きいくせに、やっぱり中身は少ないやつだ。にやりと笑みを浮かべ、「そのままの意味だ」とカンインがトグンの厚い肩をぽんと叩くと、トグンは大袈裟に訴えながら肩を落とした。トグンが固い決心をしたように唇をぎゅっと噛みしめたので、どうしたんだと悪戯っぽく脇腹をつつくと、
「チョ・ギュヒョンのせいですか?」
トグンは両拳をぎゅっと握りしめてそう言った。
「違う……」
「あいつのせいなんでしょう? あいつが兄貴に……!」
「違う!」
カンインの断固たる否定に、トグンはぎゅっと握りしめた両拳を太ももに落とし、首を横に振った。大きな図体に似合わず、子供のようにかぶりをふる姿が滑稽でもあり、ほろ苦くもあった。自分に憧れて組織に入ってきたやつだったので、もう面倒を見てやれないのが本当にすまないとカンインは思った。が、仕方がなかった。どうせいつかは死ぬ命だ。今、投げ出すとしても惜しくはなかった。だからこそカンインは、うつむいたまま厚い肩を上下させて息を殺し泣いているトグンを、余裕で慰めることができた。
昨日のジャンキーが流した血の跡が床に飛び、片づけられなかった救急箱がテーブルの上に散らかっていた。
何があったのか。心配が先だった。完治していない体でどこに行ったのか。どこに行くために、どこに行ったのか。自分の御主人様のところに行ったのか。
でたらめな性格に尻込みしながら笑ったカンインが、胸ポケットで一日中音を立てていたフィリップ・モリスを取り出した。大切なものを扱うように一度優しく撫でた。
「キム・ヨンウン」
ギュヒョンがカンインを訪ねてくることは珍しかった。ギュヒョンはカンインに出会うことを病的に嫌っているようだった。しかしカンインは気にしていなかった。普通人間というものは、自分と違う世界の人間に酷い嫌悪感かは熱心な羨望を表すもので、自分は嫌悪の対象に分類されたのだと思った。それなのに、何の用かギュヒョンが直接訪ねてきた。
乱れた髪としわになった洋服の上着がギュヒョンらしくなかった。その上、げっそりと疲れた頬は病弱なジャンキーに似ていた。一緒に住んでいると似てくるとはまさにこのことだ。
「どうしたんだ?」
ギュヒョンは答えなかった。ギュヒョンの視線が、カンインが大切そうに撫でているフィリップ・モリスに留まった。カンインはフィリップ・モリスをポケットの中に放り込んだ。ギュヒョンはフィリップ・モリスが置かれていた場所の温もりを確認しようとするように、一度手の甲で撫でた。そして聞いた。あくどく鳴る声にカンインはもう一度ぴくりと笑った。
「中央クラブを拠点にネズミが動き出した。やられる前に、おまえが先に潰せ。ネズミの首を取れば済むことだ」
「…………わかった」
「……こっちのやつらがこっそりと隠していることがばれたら台無しだ。だから……おまえひとりで行ってネズミの頭をつぶしてこい」
ネズミは敵対組織の中間ボスだった。カンインやギュヒョンの縄張りと背中を合わせていて、小さな紛争が絶えず起きていた。組織にとって厄介なネズミは、まさにネズミらしく抜け目なく卑劣で、簡単には消えてくれなかった。何度も攻めたがことごとく失敗した。ネズミは、手下たちの血がついた指と一緒に嘲笑を送ってきた。勘がいいネズミ――。そうでなくても最近やつらの不意打ちを食らうことが多かった。ネズミは元気な手下を六人も連れて歩いていた。
――そんなときにネズミに接触しろだと?
それもひとりで。死ねと言っているようなものだった。
――だから俺が、恋人をちゃんと見張っておけと言ったんだ。
自分を死に場所へと追い払うギュヒョンの言葉に、カンインは笑った。ギュヒョンが歯ぎしりするほど嫌っている陰湿さが隠れた笑みだった。
「わかった」
間抜けな野郎だ――。
自分の命令にありのままに従う必要もないキム・ヨンウンが快く承諾した。
俺の明らかな殺意がわかっているくせに。だから俺は、おまえが死ぬほど大嫌いなんだよ――。
*
相手は勘がいいネズミであるだけに、仕事を続行させることが重要だった。ネズミの除去命令を受けた翌日、俺は行動を開始した。死にに行くのは明らかだったが、不安はひとつもなかった。いつものことだが、クズみたいな自分の人生に未練はなかった。
朝早く起きて、鋭く磨いたナイフ二つを腰に挟み、もしものときのためによく磨いたナイフをもうひとつ、折り返しのところにしまいながらも、不安という感情は全く湧かなかった。運よくネズミをやり込めたとしても、何重にも取り囲まれたネズミの巣から無事に帰ってくることは困難だろう。それなのに、直面した死がむしろ慌てるくらいに、俺は平然としていた。
だが何かが気になった。血痕がところどころ落ちている床を見る度に、テーブルの上に相変わらず片づけられずに伸びている包帯を見る度に、みぞおちの端に何かがぎゅっと引っかかるように、重苦しく頼りない感じがした。憂鬱な胸を撫でた。喉に引っかかってべたべたするものが何なのかわからなかった。いい加減に脱ぎ捨てた服のように積もりゆく憂鬱が肺を抑えつけて、自然と溜息がこぼれた。
さっと服を着てテレビをつけたが、K-1の再放送に全く興味がわかず、すぐに消してしまった。
しばらくぼんやりとソファにもたれながら、トグンや部下たちに挨拶をしなければと思った。ソファから立ちあがり、事務所のドアを開けようとした。が、ドアは軋んで開かなかった。力を入れてドアを押すと、喉をふさいでいるそれのように、通路をふさいだジャンキーがいた。昨日よりも嘆かわしい顔に、自然と溜息が出た。真っ青に腫れた頬と血がついた唇、沈んだ目つきがどうしようもないほど物寂しかった。
「どけ」
床に座り込んでいたジャンキーは、俺の顔を見るなりさっと立ち上がった。ジャンキーは俺の腕にくっつこうと手を伸ばしてきたが、今日はやつの思い通りにはしてやれなかった。腕にしがみつくジャンキーを強く振り払うと、ジャンキーはばたりと音を立てて床に倒れた。いい場所に行き、よく食べてちゃんと生きていると思っていたおまえは、どうして会う度に病弱になり、衰えていくのか。ばかな俺には到底理解できない。
死んだようにひっくり返っているジャンキーの横を通り過ぎようとしたとき、胸ポケットから聞き慣れない音がした。フィリップ・モリスだった。俺は唇を噛みしめた。みぞおちに引っかかっていたものが何なのか、わかったような気がした。
「おい」
俺は足でジャンキーをつつき、揺らした。ジャンキーの両手を取って起こそうとしたが、片方の手首が脈もなくぽきりと折れて、やつはまた床に倒れて痙攣した。俺は、自分の身体ひとつまともに支えられない哀れなジャンキーの片腕を掴み、荒々しく持ち上げた。乱暴な力に強制的に起こされたジャンキーは萎れた花のようだった。俺に全身を預け、茎の折れた花のようにふらつきながら立ち上がったジャンキーを事務所の壁にもたれかからせた。どしんと壁にぶつかったジャンキーの肩が硬直した。
「二度とここには来るな」
そんな言葉を吐き出しながら、俺は煙草が欲しい気分だった。煙草が入っている胸ポケットに触れると、ジャンキーのフィリップ・モリスが入っていたが、吸いたくなかった。
そういえば、いくらクズのような俺でも、形見ひとつくらいはなければならないんじゃないかなんて、自嘲的な笑いが出た。
「どうして?」
俺の言葉に、ジャンキーは枯れた顔を上げて、沈んだ目で聞いてきた。視線が空中で交わった。
「遠くに行くからだ」
「どこに行くの?」
「遠くだ……」
最後なんだから、少しは親切にしてやってもいいんじゃないか。こんなにも弱いジャンキーに冷たくしていたことが、今さらだが申し訳なかった。最初からすまないことだらけだったが、今日に限っては余計にそう思った。人は死ぬ時になると、不思議な真似を多くすると言うが、今の自分がまさにそうだった。
「遠くってどこ?」
「とにかく遠くだ。おまえの知らない場所だ。だからもうここには来るな」
ジャンキーは俺がいなくても、息が詰まる廊下に身体を縮めて座り、冷たい夜明けを迎えながら俺を待ち続けるだろう。そんなジャンキーに、どんなに冷たく鈍い俺でも一言言ってやらなければならなかった。そうしなければ、俺が行く道が晴れないと思った。俺なんか待たないで、ギュヒョンと幸せに暮らせと言ってやらなければならなかった。だが、俺にはどうしてもその言葉が言えなかった。ジャンキーは、俺の言葉を理解できないように小首を傾げていた。夜明けの日差しを受けたジャンキーが眩し過ぎて、俺は直視できなかった。
最後だから、小さなわがままを言ってみてもいいだろうか――。
「笑ってくれ」
急な俺の言葉に、ジャンキーはもう一度小首を傾げた。そして、笑えと言う俺の催促に、無理に笑顔を作った。血のついた唇が惨たらしく伸び、あざのついた頬が奇妙に震えて、沈んだ目を細めた物悲しい笑顔だったが、あまりにも眩かった。六月の太陽のように愛らしく輝くジャンキーの前で、俺は何も言えなかった。
おまえにとって、俺たちの初めての記憶は、あの暗い部屋でしかないかもしれない。しかし俺にとっての初めての記憶は、そんなふうに明るく笑っている眩しいおまえだったということに、おまえは気づいているだろうか。
生まれて初めて人を好きになった。愛という言葉にはしがたい微妙な熱望の感情だったが、生まれてはじめて手に入れたいと思ったのは、ジャンキーが初めてだった。俺はずっと汚れていたが、死に一歩一歩近づくたびに明らかになってゆく感情は愛だった。俺は無知で、弱々しいおまえを大切に扱う方法も知らず、こんなにもみすぼらしい俺が愛くるしいおまえを欲しがってならないということはわかっている。でも、最後だから。多分最後になるだろうから、一度だけ俺は自分の思ったとおりに考えてみる。おまえがどんな気持ちで俺を訪ねてきたのか。「僕を好きなの?」と聞いたおまえは、俺を好きだったのか。そう。俺は、自分の思ったとおりに確信した。おまえも俺を愛していたのだ、と。多分これが最後だから、たとえ勘違いでも、俺が夢を見たっていいだろう。おまえを無理に手に入れたり、みすぼらしい心を告白したり、そんな醜い真似はしない。ただ、おまえと俺は愛し合っていた。忌々しくも感傷的になった気持ちが止められずに、流れた。
「笑ったほうがかわいい」
「……」
「どこに行っても元気で」
「……どこに行くの?」
「少し煙草をやめて、ちゃんと飯も食え」
「……どこに行くの?」
「チョ・ギュヒョンの言うことよく聞いて、泣かないで……そんなふうに笑いながら生きていけ」
一方的な最後のあいさつを告げ、ジャンキーの肩をぽんと叩いて背を向けようとしたときだった。
「キム・ヨンウン!!!!」
ジャンキーの口から、なぜか聞き慣れない名前が出た。
最後の力を尽くしたように廊下に響き渡る声に、俺は思わず立ち止まった。ふらふらと背中の後ろから届いてきたのは、相変わらずジャンキーの素朴な匂いよりも、ひりひりと辛いフィリップ・モリスの香りだった。
――おまえは俺の名前も知っていたんだな。
背中にもたれる紙切れのような重さよりも、伝わってくるジャンキーの微弱な体温が不安だった。振り払ってしまいたかったが、これが最後なのだからという気持ちにもたれる俺の欲望は、俺の背を超えるくらい膨らんでいた。硬直した俺の身体に、ジャンキーの震える指が触れた。
「僕、毎日事務所に来るから」
うなじに柔らかくしがみついたジャンキーの声が、俺の耳元に触れた。
「ずっと待ってるから!!」
おまえもわかっているのか。俺の心配を。息と鳴き声が混ざって、わずかに震える声が「わかってるよ」と言っているようだった。でも振り返るには遅すぎた。俺はうなじを抱きしめるジャンキーの微妙な体温から静かに遠ざかった。心臓でフィリップ・モリスはまださくさくと音を立て、腰に差したナイフが心臓を刺しているかのように痛かった。だから、俺は幸せだった。
*
ネズミに手を出すことがどれだけ危険なのかは、家族のように心から慕っていた部下たちを何人も失ってきたカンインが、一番よくわかっていた。そして、失ってきた部下たちと同じように、自分もまた今、失われようとしているということも。だからカンインは拒否しなかった。むしろ喜ぶように平然とした微笑み浮かべながら、ギュヒョンの明白な殺意におとなしく従った。ギュヒョンはそんなカンインが窮屈だった。いっそカンインが悪い人間なら、複雑に絡まった感情は遥かにマシになると思った。
カンインに命令した後、ずっと気分が優れなかった。ギュヒョンの荒々しい暴力に諦めたように従いながら目を閉じたジャンキーがそうで、ギュヒョンの明白な殺意に平然と従いながら笑みを浮かべたカンインがそうだった。腹がひっくり返るほど腹立たしいばかりだった。ギュヒョンはこめかみをとんとん叩きながら、椅子にもたれた。正確な命令はしなかったのでカンインがいつ行動し始めるのかはわからなかったが、できるだけ早ければいいと思った。そうすればこの複雑な頭と気まずい気持ちも少しは和らぐと思った。
ジャンキーに手を出してからギュヒョンは、自分が絶対にジャンキーを傷つけられないのだと知った。そして目標を失った憎しみの矛先はカンインへ向いたのだった。
ギュヒョンはカンインがジャンキーに対してどんな気持ちを抱いているのかは知らなかった。ただ愛らしいジャンキーが無邪気に飛びついてくるから、カンインは笑いながら抱きかかえていたのかもしれない。そして自分の身の程を知ったカンインはジャンキーを諦めたのかもしれない。そう思っていた。
暴君の命令に対し、罪人は大人しく刃を受け、自ら幕を下ろすのだ。罪があるのだから当然のことだとギュヒョンは自分に言い聞かせた。が、ギュヒョンの身体を抑えつけるのは罪悪感だけだった。ジャンキーの腐った目――。 キム・ヨンウンがいなくても生きていけるだろうか。飛躍した考えは、日が経つほど膨らむばかりだった。ソンミンが自殺未遂ではなく、本当に自殺をしてしまうかもしれないという想像をかき消そうと、ギュヒョンは苦労して妄想に蓋をした。
「ギュヒョン様、カンイン様がいらっしゃいました」
秘書の言葉が終わるのと同時に、荒々しくドアを開けて入ってきたのはカンインだった。ギュヒョンは頭をあげた。混乱が混沌になり、ぐちゃぐちゃに踏みつぶされた。カンインはまるで自分の席であるかのようにデスクの前のソファに腰を下ろすと、煙草を取り出し、火をつけた。
汚くて、話も聞けない野郎だ。事務所は禁煙なのに――。
ギュヒョンはそう思ったが、これから最期を迎えようとしている人間にしつこく言うのも嫌だったので、言葉を飲み込んだ。事務所内はすぐにカンインの煙で霞んだ。ぷかぷかと煙草を吸っては煙を吐き、また煙草を吸って、何も言わずに煙草ばかり吸っていたカンインが、突然口を開いた。
「……今日やる」
意外にも早いカンインの決断に、ギュヒョンは眉間にしわを寄せた。自分は何を望んでいるのだろう。カンインは何もかもわかっていて、死んでくれようとしているというのに。
「俺の顔を見るのはこれが最後だ。よかったな」
カンインは言った。
「だから……最後にひとつだけ俺の頼みを聞いてくれ」
そう言ってカンインは、癖のように胸ポケットを撫でた。何が入っているのだろうか、何かががさがさと音を立てた。その音で耳を塞ぎたいくらい、ヒステリックになった感情曲線が急カーブを描きながら曲がった。
「ジャンキー……のことだけど」
ギュヒョンは他人の血を浴びて生きている悪魔のようなカンインの口が、自分の大切なジャンキーについて話すのが、自分の名前を呼ばれる以上に嫌だった。が、最後だから大目に見た。
「……うまくやってくれ」
カンインは言った。
(やっと言いたかった言葉がそれか?)
野良猫みたいに逆立った毛が垂れた。急速に襲ってきた虚しさに、全身の力が抜けた。カンインは恥ずかしそうに笑った。冷たい印象があっという間に穏やかになり、初めて見る彼の素直な微笑みに腹がよじれた。喉を上ってくる吐き気に、ギュヒョンは口を押さえた。突然口を塞ぎ、うつむくギュヒョンを見て、カンインの表情が微妙に変わった。
(おまえもジャンキーのことを気にしていたのか……)
一瞬にして可哀想な二人の恋人たちを妨げる巨大で悪辣な障害物でしかなくなったギュヒョンは、唇を歪めた。
「おまえ……」
またそのむかつく口からギュヒョンを指す言葉が出たのと同時に、ギュヒョンは素早く口を塞いで事務所の隅にあるトイレに走った。ギュヒョンは便器の端を掴み、吐いた。腹は無惨なほどひっくり返るのに、出てくるものは涙しかなかった。追ってきたカンインの手が困ったようにためらいながら、ギュヒョンの背中に触れた。とんとんと背中を叩くその分厚い手つきが残酷だった。嗚咽をあげながら出るものもなく、ギュヒョンの喉からはひよわな音ばかりが涙と一緒に溢れ出た。
「頭の悪い俺よりは、賢いおまえのほうがジャンキーによくしてやれるだろ」
ギュヒョンの背中を叩きながら、カンインが言った言葉はそんなものだった。自分はなんて残酷なのだろうとギュヒョンは思った。ジャンキーと同じで、カンインはギュヒョンを全て理解すると言うような態度だった。
(おまえを殺してしまいたい俺の粗悪な殺意を、おまえは理解するのか?)
だからギュヒョンは残酷さを感じた。
*
トグンはいつも大袈裟だった。「みんなを頼む」というカンインの言葉に最後を直感したのか、カレイのように尖った眼をまんまるに開き、ぶるぶる震える声で「兄貴、どういう意味です?」と聞いてきた。頭は大きいくせに、やっぱり中身は少ないやつだ。にやりと笑みを浮かべ、「そのままの意味だ」とカンインがトグンの厚い肩をぽんと叩くと、トグンは大袈裟に訴えながら肩を落とした。トグンが固い決心をしたように唇をぎゅっと噛みしめたので、どうしたんだと悪戯っぽく脇腹をつつくと、
「チョ・ギュヒョンのせいですか?」
トグンは両拳をぎゅっと握りしめてそう言った。
「違う……」
「あいつのせいなんでしょう? あいつが兄貴に……!」
「違う!」
カンインの断固たる否定に、トグンはぎゅっと握りしめた両拳を太ももに落とし、首を横に振った。大きな図体に似合わず、子供のようにかぶりをふる姿が滑稽でもあり、ほろ苦くもあった。自分に憧れて組織に入ってきたやつだったので、もう面倒を見てやれないのが本当にすまないとカンインは思った。が、仕方がなかった。どうせいつかは死ぬ命だ。今、投げ出すとしても惜しくはなかった。だからこそカンインは、うつむいたまま厚い肩を上下させて息を殺し泣いているトグンを、余裕で慰めることができた。










