「やっと来たの?」
今日も事務室の前では、ジャンキーが三角座りをして俺を待っていた。半ズボンから出した足が眩しかった。長袖で隠した痩せた手首に埋めていた頭を上げると、ジャンキーはにやりと 笑った。生気のない頬が奇妙にぴくぴくさせながら、しわを作った。
俺はそんなジャンキーを無視して、事務室のドアノブをまわした。ドアにもたれていたジャンキーが、俺がドアを開けるのと同時に力なく前のめりになった。酷く軽く、一握りくらいしかないような身体を動かして立ち上がると、ジャンキーは俺の手首にぎゅっとすがりついた。弱い呼吸と濃い煙草の匂いが強くぶつかった。
クソッ――。
また誰かが首を絞めているみたいに息苦しくなった。
腕にヒルのようにくっつくジャンキーをずるずる引きずりながら、俺は事務室に入った。中に座っていた何人かのやつらが、目で挨拶をする。こんなふうにジャンキーと事務室に入ることなんて一度もなかったので、やつらはひそひそと囁きながら、目を細めた。俺は丁重に頭を下げ、後ずさりしながら事務室を出た。やつらにジャンキーと俺は何の関係もないと説明するのは大変だと思った。
俺が服を着替えている間、ジャンキーはソファに座っていた。裸足をソファの上に載せ、身体を縮めて、揃えた両足をぎゅっと抱えた。見ず知らずの原っぱに放り出された孤児みたいに哀れで痛ましい姿だ。俺は、日常風景のように見慣れたジャンキーの姿を無視した。
その日からジャンキーは、毎日事務室にやってきた。毎朝早くに、よく寝ていないような顔をしながら事務室にドアの前に座り込んで俺を待っていた。そして俺が事務室に入るときに、ヒルのように腕にくっついて一緒に事務室に入るのだ。
俺は、初めは怒って悪口を言った。殴ろうと思ったが、一発でも殴ったらそのまま壊れてしまいそうで殴れなかった。ジャンキーは俺の脅迫にも屈しなかった。ただ青白い頬をひきつらせながら笑うだけだった。
疲れてしまった。だからジャンキーが俺を無視するように、俺もジャンキーを無視することにした。
俺のように拳だけが取り柄の人間が事務室に通い、出勤簿に印をつけると言っても、やらなければならない仕事は特になかった。俺はただ呼び出しを待つだけだった。毎日毎日、空き時間にテレビを見て、飯を食って、煙草を吸って、運動して、ナイフを磨きながら俺は一日を消費する。一方、ジャンキーは家具のようだった。図体も小さいし、何か自分の仕事をするのでもない。ジャンキーはただその場所にじっと存在しているだけだった。
テレビを見て、寝て、煙草を吸いながら、そんなふうに特に変わったこともなく毎日は流れていった。俺たちはただ同じ空間を共有するだけの、互いに何の意味もない空気のようだった。
出勤するや否やつけたテレビは、この間のK-1が放送中だ。興奮したアナウンサーの声が生き生きしていた。ジャンキーの横にならんで座り、俺はテレビを眺めた。熱狂する俺と違って、ジャンキーは疲れているのか、危なっかしく欠伸をした。盛り上がる競技に熱中しながら何気なく目をやると、ジャンキーはソファにもたれて眠っていた。
俺はおまえみたいなやつ、無視することにした。でもそんなふうにソファにもたれて寝ているおまえを見ていると、俺はおまえの呼吸を確認したくなる。死んでいるのか、生きているのか。そんなふうに死んだような顔をしていても、おまえは物悲しく生きているのか。俺はジャンキー鼻の下に手をやった。俺の期待とは違って、ジャンキーは規則的な暖かい呼吸をしながら眠っていた。温かい溜息が出た。俺は死んだようなおまえが気になって耐えられない。死んだようなおまえの存在感がすごく綺麗で艶やかで――俺は息ができなかった。
詰まった気管を開くためには、煙草がちょうどいい。俺はテーブルの上に置かれた煙草を掴み、部屋を出ようした。すると、
「どこに行くの?」
ジャンキーが思ったより低い声で俺を呼んだ。
寝ていたんじゃなかったのか――。
ひときわはっきりとした声に、やつの鼻の下に持っていった手が恥ずかしかった。ジャンキーの微熱が生々しく残っている掌を握ったり開いたりして、俺はいつもそうだったように、ジャンキーを無視した。事務室の外に出ようとすると、ジャンキーが俺の手首を掴んできた。
「僕も行く」
丸太くらいしかないくせに、煙草を吸うと言う。生死の境を行き来しているくせに煙草をくれというのがこしゃくで、俺は鼻で笑った。絡みつくジャンキーの手首を振り払い、俺は事務室の外に出た。
真夏の空気が蒸し暑かった。ドアが閉まると、憂鬱な気分が治り、ようやく息を吹きかえすようだった
喫煙場所は8階と7階の間の踊り場で、俺の事務室は7階だ。
俺がせっせと階段を上っていくと、誰かが立っていた。チョ・ギュヒョンだった。煙草をくわえながらのそのそと歩いてきた俺の姿を見たギュヒョンの眉間は、明らかに狭くなった。
ギュヒョンはいつもそうだ。ギュヒョンはいつも俺を虫けらでも見るように接する。俺は自分が虫けらだということはわかっていたが、ギュヒョンの軽蔑には虫唾が走った。いつものことなので口応えはせず、俺はただじっと煙草をくわえていた。ギュヒョンは俺と同じ空間にいることが不快であるように、背を向けて急いで煙草を深く吸いこんだ。吸い込む度に、フィルターが一定間隔ずつ減っていった。
ギュヒョンと自分の間には、壊せないほどの分厚い壁が存在していると俺はいつも思っていた。だが突然あの店から姿を消したジャンキーのことで、ギュヒョンが狂ったようにジャンキーに執着して、ジャンキーを自分の家に住ませるように手配したという噂を聞いた時は、むしろ安心した。
いつ死ぬかもわからないバカで、持っているものと言えば拳くらいしかない自分よりは、賢くて持っているものが多い理性的なギュヒョンのほうがジャンキーには似合っていた。しかし頭の悪い俺でも知っていることをジャンキーは知らないのだ。だからジャンキーは蛾のように美しい鱗粉をまき散らしながら、濡れた翼で火に飛び込んでいくのだ。どんな困難も恐れないバカみたいなヤツだ。だから俺はジャンキーを見る度に気の毒に思った。自分の居場所を見つけられずに彷徨っているざまがバカみたいだった。その上、チョ・ギュヒョンもチョ・ギュヒョンだ。この馬鹿みたいなやつは、あのチビをしっかりと捕まえておくこともできずに、溜息を吐くように煙草を吸っている。そして俺はあのチビが 身体中をこすりつけてくる度に、息が止まる。忌々しい関係だった。
「チョ・ギュヒョン」
背を向けたギュヒョンの背中が軽く動いた。やがて眉間にしわを寄せたまま、ギュヒョンはこちらを振り返った。久しぶりに対面したギュヒョンの疲れた瞳と、みすぼらしい出で立ちに俺は驚いた。
「何だ?」
鋭い声が踊り場に響いた。神経を尖らせた刃が真っ赤な舌を出しながら、さくさくとチョ・ギュヒョンの心をすり減らしているようだった。
「今日は――仕事はないのか?」
これと言った言葉が見つからなくて、呼び出しがないことを尋ねると、ギュヒョンの頬が奇妙に歪んだ。一緒に暮らすうちに似てきたのか、ギュヒョンの微笑みは生気のないジャンキーの笑顔と似ていた。
「キム・ヨンウン――。おまえはそんなに死にたいのか?」
「……」
「死にたいのか? 死ぬのがそんなにいいか? 死にたいか? 俺が本当にこのまま殺してやろうか? ああ?」
折れた煙草を手にしながら、ギュヒョンは大声をあげた。悲鳴のような声が繰り返し吐き出され、ギュヒョンの口から溢れ出た。ギュヒョンのくたびれた瞳に浮かんだ激しい嫉妬の目つきに、俺は口をつぐんだ。むかむかするものを吐き出すように声をあげるギュヒョンは、零れ落ちた前髪を神経質にかきあげながら背を向けた。背を向けたギュヒョンの曲がった背中が、こんなにも敗色が濃いはずがなかった。
「いつ煙草を変えたんだ?」
背を向けたギュヒョンの声が空しく踊り場に響いた。俺はふと手に握りしめた煙草を見下ろした。それはフィリップ・モリスだった。俺はそんな海外の煙草なんて吸わない――。笑えることに俺は、ジャンキーの煙草を握りしめてきたのだった。
*
あの頃、フィリップ・モリスが韓国で販売されなくなった。酷いヘビースモーカーだった僕は指先まで震えるほど激しい禁断症状になりながらも、別の煙草は吸えなかった。いわゆる「作業」が終ってベッドのヘッドボードにもたれ、赤黒く染み込む照明の上を染める他人の見慣れぬ煙草の匂いを嗅ぐ度に、僕はフィリップ・モリスが鼻先を掠める酷い匂いと、吸うと肺の深くに膨らむような奇妙な感じを思い出した。それだけだった。僕はフィリップ・モリスが恋しいわけではなかった。皮膚病にかかったネズミのように一日中ぶるぶる震えても、砂をいっぱいに呑み込んだように口が乾いても、僕はフィリップ・モリスが恋しくなんかなかった。ただ――時々思い出すだけだった。
ギュヒョンはフィリップ・モリスを吸っていた。ギュヒョンの初印象はそれだった。ホールの入口に立っていたギュヒョン初めて見たとき、僕はギュヒョンが背の高い人だと思い、アルマーニのブラックスーツが身体にくっついているように似合っていると思った。正しくて、気高い動線を持っていて、綺麗な顔をしていると思った。そしてホールに立っているギュヒョンの前を、危うい足取りで通り過ぎたとき――。僕は、僕が喪失した片鱗の中にあるフィリップ・モリスの匂いを嗅いだ。
瞬間、肺深くに拘束し、抑えつけていた自分でも知らない感情が潮が満ちるように逆流して僕を襲った。やがて喉に張り付いていた自虐的な感情に抑圧された僕は大理石の床にがっくりと倒れた。身体をうずくまり、麻薬中毒者のように身体を震わせながら、発作を起こしているようだった。そしてギュヒョンは僕を 振り返ったのだ。自分の長い影の後ろにうずくまって座り、精神病者のように痙攣した僕を、ギュヒョンは抱きしめた。うずくまった身体の上に襲う鮮やかなフィリップ・モリスの香りに、目の内側から湧きあがる涙を僕は覚えている。本当はすごく恋しかったのだ。
ギュヒョンによってマンションに移された日、マンションのテーブルの上にはフィリップ・モリスが散らばっていた。ギュヒョンのものだったが、僕のために用意したものであるかのように、当然のように煙草をくわえた。
「それ、今はもう売ってないんだ」
「知ってる。僕も吸ってたから」
「苦労して日本から手に入れた珍しいものなのに、そんなに手当たり次第に吸ったらだめじゃないか」
断りもなく図々しく煙草をくわえる僕を見るギュヒョンの眉間にしわが寄ったけれど、僕は知らないふりをしてフィルターを噛んだ。久しぶりに肺に広がるフィリップ・モリスのほろ苦さが耐えられなくて懐かしむように。
「これ以外は吸えないんだ」
異質的に綺麗な空気で満たされていたマンションが、僕が吐き出した フィリップ・モリスで壊れていった。ようやく落ち着いた気がした。煙が淡く広がり、また浅くなる中を見ながら、僕は安楽に酔っていった。
「フィリップ・モリス以外吸えない?」
「うん、別のは吸えないんだ。吸えなくて死にそうだったけど、違う煙草はなぜか口に合わなくて」
「確かにフィリップ・モリスはクセになる味だからな」
煙を吐き出す度に、僕はギュヒョンの質問に答えた。初めて交わす会話にしては、柔らかく流れていくリズムが良かったらしい。煙草をおいしく吸う僕をしばらくじっと見ていたギュヒョンは、リビングの片隅に立った飾り棚を開けた。中に入っていたフィリップ・モリスを 何箱か出しながら、ギュヒョンは「吸いたいときに吸え」と言った。高価なもののはずなのに少しも惜しまない、爽やかな姿だった。
あの頃、国内で発売されなくなったフィリップ・モリスを購入するには、日本から輸入するしかなかった。ギュヒョンは規則的な主義で、一定の量の煙草を購入していたらしい。きっちり自分の分だけ。そこに喫煙者がひとり増えたから、煙草が足りなかったのは明らかだった。
僕は知らなかったが、時期が来るまで僕くらいヘビースモーカーだったギュヒョンは禁煙した。僕のために――。
ギュヒョンと僕の関係はいつもそうだった。ギュヒョンはいつも持っているものを惜しみなく与え、僕は彼がくれる全てのものを、それが当たり前のように自然に受け取った。もっと欲しい物をせがんで、彼は彼があげられるすべての物を僕にくれた。僕は彼をゆっくりと搾り取っていった。そしてついには彼が持っていないものまで欲しくなった――。
今日は帰りが少し遅くなってしまった。煙草を吸うと出て行ってしまったカンインが帰ってこなかったせいだ。帰ってくるのを待って、顔だけ見ていこうと思ったのが、うっかり眠ってしまった。起きた時には事務室はすっかり誰もいなくなっていた。一日が終わらないようなほろ苦い気分を感じながら、時計を見たとき、遅くなり過ぎたということに気づいた。ギュヒョンはいつもきっかり定時退社するから、ソンミンはギュヒョンが到着する前にマンションにいなければならないのだ。半日、家に閉じこもっていたように装って、煙草をたくさん吸いながら――。
家にいなかったことを知られたくないソンミンの速い足音が廊下に響いた。
01010203
ボタンを押して、玄関に入ったとき、眩しく網膜を刺す光にソンミンは目を細めた。明かりがついたリビングは、既にギュヒョンが帰ってきているということを語っていた。
ギュヒョンはリビングの真ん中のソファに座り、本を読んでいた。玄関のドアが閉まる音と、できるだけ音を殺したソンミンの足音を聞きながら、ギュヒョンは振り向かなかった。ソンミンは不吉な予感に喉が乾いた。
これからはどこかへ出かけるときは俺に言ってくれないか――。
ギュヒョンの言葉が思い浮かんだ。緊迫した表情と辛い時間が隠れた視線を、ソンミンは完全に無視したのだ。そして、ソンミンがギュヒョンの言いつけを守らないということを、ギュヒョンにわからせてしまう。
「おかえり」
「うん……」
振り向かずに声をかけるギュヒョンの後頭部にソンミンは答えた。リビングに響く声は、普段と変わらず落ち着いて沈んでいた。淡々と流れてくる声にソンミンは内心安堵した。
ギュヒョン、怒ってないんだ。まあ、今まで怒ったことなんてないんだけど――。
ソンミンはいつも不安だった。ギュヒョンはいつも危険水位に到達した器いっぱいに揺れる水で、ソンミンは危ういコップをもてあそぶ悪い子供だったからだ。
「どこに行っていた?」
「ちょっと用事があって……」
リビングに入ったソンミンは癖のように煙草に火をつけた。カンインがソンミンの煙草を持っていってしまったから、カンインの煙草を持ってきた。アリラン。彼らしい無情な選択だ。ソンミンはフィルターを深く吸い、煙を吐き出しながらリビングを横切った。
「煙草、変えたのか?」
「ああ、うん。全部吸っちゃって」
「……誰かが持っていったんじゃなくて?」
トーンの高低はなかったが、鋭く刃を研いだギュヒョンの言葉にソンミンの足音が止まった。ギュヒョンは相変わらず視線を本に向けたままだった。
「違う煙草は吸えないっていったのに」
「……」
「今はくわえられるのか?」
ギュヒョンがゆっくりと本を閉じた。それと同時にあげた視線がソンミンの身体にくっついてきた。上から下まで隅から隅まで舐めるような冷やかな視線。ギュヒョンが今までに送ってきた暖かい視線とは全く違う、初めて会ったときの印象に似た、べたついた沼のように冷たい視線に、ソンミンの身体が固まった。言い訳をなくした唇は、死んだ煙を吐き出した。
「それに……男のアレもよくくわえるらしいな」
「ギュヒョン――!!」
その瞬間、ギュヒョンが読んでいた本を投げつけた。本は正確にソンミンのそばを掠めて壁にぶつかり、ものすごい音を立てて床に落ちた。真面目なギュヒョンの暴力的な行動に驚き、ソンミンはその場所を動けなかった。
そんな軽薄な言葉は初めてだった。いつでも教科書に載っているようなきちんとした言葉を使っていたギュヒョンの唇が汚れた。打ち込まれた釘のように動けないソンミンの前に、ギュヒョンがゆっくりと近づいてきた。今まで見たことのないような、ぞっとするようなギュヒョンの目つきにソンミンの背筋は冷や汗で濡れた。ギュヒョンがまだ煙草の箱を握りしめているソンミンの手首を掴み捻ると、ソンミンの唇から悲鳴が洩れた。
「やめて……」
小さく震える呼吸をものともせずに、ギュヒョンはソンミンの手首を無理に折り曲げた。手首を砕くギュヒョンの暴力に、ソンミンは叫んだ。
「ッ!!」
ギュヒョンは笑いながら手に力を入れた。何かがプツリと切れる音と同時に、ソンミンの手首は力なく折れた。神経を集中しても指先一本もたてることができない。酷い苦痛がソンミンの身体中に走った。折れた手首を握りしめたまま、床にへたり込んだソンミンの前でギュヒョンが視線を留めた。きちんとした動線を持った冷ややかで長い指がソンミンの眩しい裸足を撫でた。ゆっくりと、大切なものに触れるように。そして突然、やせ細ったソンミンの足首をぎゅっと掴んだ。ギュヒョンは、枯れ枝みたいに細いソンミンの足首を片手で握り力を入れた。
「本当はどこにも行けないように、おまえの足を壊してしまいたかった……」
苦痛に震えるンミンの視線がギュヒョンを見た。ギュヒョンの瞳には、これ以上温もりは存在しなかった。もちろん、涼しさも存在しなかった。心深い場所に抑制されていた欲望が、ずっと押さえつけられてきた恨みと入り混じって複雑な色を作り出していた。敢えて色に例えるならば灰色を湛えたギュヒョンの瞳に、ソンミンの心臓は冷たく冷めていった。本音が籠った低い声に、猛獣に捕われたようなソンミンの身体がぶるぶると震えだした。
ソンミンの裸足を撫でる指がゆっくりと這いあがり、冷や汗に濡れたソンミンの髪をぎゅっと掴んだ。頭を後ろに反らされ、光を受けたソンミンの顎が青白く光った。薄い肌の下で拡張した血管が、青々しく震えた。
「おまえは自分が誰のものかわかっていないようだな。おまえは、自分の身体が自分のものだとでも思っているのか?」
「……ギュヒョン」
「おまえは俺が買ったんだ。俺が金を出しておまえを買ったんだ! 大人しくしているから、ただのパトロンに見えたか?」
ギュヒョンが怒鳴り散らした。結局、爆発したのだ。ギュヒョンの広い心にも限界が存在したのだ。危うく揺れていた表面張力を超えて、感情の水が溢れだしたのだ。理性では制御できないほど激しい圧力で零れ落ちた。

何よりも大切に思ってやろうとしたのに、おまえが俺を無視するから。すべてを捧げると言ったのに、俺がやれないものまでおまえが望んでやまないから――。
生まれて初めて経験した苦々しい敗北感と喪失感が、毒薬のようにギュヒョンのくたびれた心身に広がっていった。毒薬が混ざり、毒気になり、毒気が混ざって狂気になった。だんだん濃度が濃くなっていくギュヒョンの瞳は、結局真黒に蒸発してしまった。
ソンミンは脈が無くぐったりした手首を掴んで、ぶるぶる震えているだけだった。身分をわきまえなければならないということに、もっと早く気づかなければならなかったのだ。その冷やかな瞳の裏側にあるものは、尋常じゃない狂気だということに、早く気づかなければならなかった。後悔はいつも、いっぺんに押し寄せてくる。それまで自分が立っていた安全な大地を突然失った足が、果てしない奈落へと落ちていく。
ギュヒョンはソンミンの長い髪を掴んだまま、苦痛に呻き声をあげる紙切れみたいな身体をずるずると引きずっていった。あれほど大切にしてきた綺麗な身体が傷つくことにも構わず、ギュヒョンはソンミンをベッドに放り出した。これから起こることを直感したように、ソンミンの身体が震えた。
「ギュヒョン……」
最後に残ったわずかな理性に訴えかけるように、たどたどしく小さく響く声。
――今さら呼んだところで意味はない。俺が静かに血を吐きながらおまえを呼んでいたたくさんの時間、おまえは俺を完全に無視してきたんだ。もう俺には、おまえを振り返る余裕なんて残っていないよ、ソンミン。
ギュヒョンはベッドに放り出されたソンミンの肩を抑えつけ、荒々しい口づけをはじめた。抵抗なんてみすぼらしかった。虚弱な身体はギュヒョンの腕力の前に、空しくへたばった。受け入れないようにぎゅっと閉じた唇も、ギュヒョンが片手で顎を割るように力を入れると、あっけなく開いた。今までギュヒョンと交わしてきた甘いキスではなかった。それはあくどい暴力だった。ギュヒョンは暴風のように欲情をむさぼりながら、子供みたいに小さくて赤いソンミンの舌を荒く噛んだ。敢えて血を見たがるように、唇が宙で絡んだ。ソンミンは、ギュヒョンの唾液をほろ苦く感じた。フィリップ・モリスのように――。
「んっ……」
生臭い血がソンミンの口に広がった。ソンミンの抵抗で、ギュヒョンの唇もすっかり噛まれていた。生臭い血の味がして、ギュヒョンは唇を離し、手の甲で口を拭った。片眉が嘲笑うように動いた。
その隙にソンミンは、ギュヒョンの下からベッドの外に逃げようとあがいた。下半身をギュヒョンに固定されながら、抜けだそうともがく姿がこっけいだった。あまりにもこっけいで耐えられなかった。ギュヒョンは低く肩を落としながら嘲笑った。
――なぜ俺から逃げようとする?
ギュヒョンは反抗することしか知らない憎たらしいソンミンの両手首を片手で掴み、ソンミンの頭の上に固定した。ギュヒョンの頑丈な手の中で、ソンミンの手首に刻まれたたくさんの傷が捻られた。
「やめて……ギュヒョン……」
ソンミンの真っ白な長袖のシャツが、未だ癒えることのない傷から流れ出た血で瞬く間に染まっていった。それと同時に、部屋の中が生臭い悦楽に堕ちたように赤く滲んだ。
ギュヒョンの動きが止まった。
あの日、絶え間なく耳を刺激した水音と視界を満たした生臭い血が手についたように生々しかった。ソンミンのガラス玉のような瞳に溜まった涙が、すうっと 真っ白な顔に沿って流れ落ちた。
その瞬間、ギュヒョンは直視した。獣のように息を荒げている自分を。無意味で虚しい息を吐き出すために、自分の大切な人を力ずくで抑えつけて喰らおうとする獣のような自分を。
ギュヒョンの手からするりと力が抜けていった。ギュヒョンの身体が、ソンミンの上からどいた。ソンミンの上から退いた長い影が、倒れそうになりながら、ゆらゆらと揺れていた。
「うっ……うぅっ……」
苦痛と衝撃で混乱したソンミンの泣き声が、小さな口から溢れ出た。それと同時にギュヒョンも似たような呻き声を吐き出した。
「おまえを思うと一日も休まる日がない。おまえが突然いなくなってしまったら俺はなす術がないんだ。俺は……どうすればおまえを捕まえられる? ……おまえが答えてくれなくて恨めしくても、俺にはできることが何もない……」
「ギュヒョン……」
「……ジャンキー……おまえはどうしてそんなに悪いやつなんだ……」
最後の言葉は、まるで独り言のように零れた。ギュヒョンは、揺れるように部屋を出て行った。そしてソンミンはまた一人きりで残された。ギュヒョンはまた、自分の大切な安息をソンミンに譲った。消せない傷跡のように、罪悪感だけをひっそりと自分の背中に背負ったまま――。
今日も事務室の前では、ジャンキーが三角座りをして俺を待っていた。半ズボンから出した足が眩しかった。長袖で隠した痩せた手首に埋めていた頭を上げると、ジャンキーはにやりと 笑った。生気のない頬が奇妙にぴくぴくさせながら、しわを作った。
俺はそんなジャンキーを無視して、事務室のドアノブをまわした。ドアにもたれていたジャンキーが、俺がドアを開けるのと同時に力なく前のめりになった。酷く軽く、一握りくらいしかないような身体を動かして立ち上がると、ジャンキーは俺の手首にぎゅっとすがりついた。弱い呼吸と濃い煙草の匂いが強くぶつかった。
クソッ――。
また誰かが首を絞めているみたいに息苦しくなった。
腕にヒルのようにくっつくジャンキーをずるずる引きずりながら、俺は事務室に入った。中に座っていた何人かのやつらが、目で挨拶をする。こんなふうにジャンキーと事務室に入ることなんて一度もなかったので、やつらはひそひそと囁きながら、目を細めた。俺は丁重に頭を下げ、後ずさりしながら事務室を出た。やつらにジャンキーと俺は何の関係もないと説明するのは大変だと思った。
俺が服を着替えている間、ジャンキーはソファに座っていた。裸足をソファの上に載せ、身体を縮めて、揃えた両足をぎゅっと抱えた。見ず知らずの原っぱに放り出された孤児みたいに哀れで痛ましい姿だ。俺は、日常風景のように見慣れたジャンキーの姿を無視した。
その日からジャンキーは、毎日事務室にやってきた。毎朝早くに、よく寝ていないような顔をしながら事務室にドアの前に座り込んで俺を待っていた。そして俺が事務室に入るときに、ヒルのように腕にくっついて一緒に事務室に入るのだ。
俺は、初めは怒って悪口を言った。殴ろうと思ったが、一発でも殴ったらそのまま壊れてしまいそうで殴れなかった。ジャンキーは俺の脅迫にも屈しなかった。ただ青白い頬をひきつらせながら笑うだけだった。
疲れてしまった。だからジャンキーが俺を無視するように、俺もジャンキーを無視することにした。
俺のように拳だけが取り柄の人間が事務室に通い、出勤簿に印をつけると言っても、やらなければならない仕事は特になかった。俺はただ呼び出しを待つだけだった。毎日毎日、空き時間にテレビを見て、飯を食って、煙草を吸って、運動して、ナイフを磨きながら俺は一日を消費する。一方、ジャンキーは家具のようだった。図体も小さいし、何か自分の仕事をするのでもない。ジャンキーはただその場所にじっと存在しているだけだった。
テレビを見て、寝て、煙草を吸いながら、そんなふうに特に変わったこともなく毎日は流れていった。俺たちはただ同じ空間を共有するだけの、互いに何の意味もない空気のようだった。
出勤するや否やつけたテレビは、この間のK-1が放送中だ。興奮したアナウンサーの声が生き生きしていた。ジャンキーの横にならんで座り、俺はテレビを眺めた。熱狂する俺と違って、ジャンキーは疲れているのか、危なっかしく欠伸をした。盛り上がる競技に熱中しながら何気なく目をやると、ジャンキーはソファにもたれて眠っていた。
俺はおまえみたいなやつ、無視することにした。でもそんなふうにソファにもたれて寝ているおまえを見ていると、俺はおまえの呼吸を確認したくなる。死んでいるのか、生きているのか。そんなふうに死んだような顔をしていても、おまえは物悲しく生きているのか。俺はジャンキー鼻の下に手をやった。俺の期待とは違って、ジャンキーは規則的な暖かい呼吸をしながら眠っていた。温かい溜息が出た。俺は死んだようなおまえが気になって耐えられない。死んだようなおまえの存在感がすごく綺麗で艶やかで――俺は息ができなかった。
詰まった気管を開くためには、煙草がちょうどいい。俺はテーブルの上に置かれた煙草を掴み、部屋を出ようした。すると、
「どこに行くの?」
ジャンキーが思ったより低い声で俺を呼んだ。
寝ていたんじゃなかったのか――。
ひときわはっきりとした声に、やつの鼻の下に持っていった手が恥ずかしかった。ジャンキーの微熱が生々しく残っている掌を握ったり開いたりして、俺はいつもそうだったように、ジャンキーを無視した。事務室の外に出ようとすると、ジャンキーが俺の手首を掴んできた。
「僕も行く」
丸太くらいしかないくせに、煙草を吸うと言う。生死の境を行き来しているくせに煙草をくれというのがこしゃくで、俺は鼻で笑った。絡みつくジャンキーの手首を振り払い、俺は事務室の外に出た。
真夏の空気が蒸し暑かった。ドアが閉まると、憂鬱な気分が治り、ようやく息を吹きかえすようだった
喫煙場所は8階と7階の間の踊り場で、俺の事務室は7階だ。
俺がせっせと階段を上っていくと、誰かが立っていた。チョ・ギュヒョンだった。煙草をくわえながらのそのそと歩いてきた俺の姿を見たギュヒョンの眉間は、明らかに狭くなった。
ギュヒョンはいつもそうだ。ギュヒョンはいつも俺を虫けらでも見るように接する。俺は自分が虫けらだということはわかっていたが、ギュヒョンの軽蔑には虫唾が走った。いつものことなので口応えはせず、俺はただじっと煙草をくわえていた。ギュヒョンは俺と同じ空間にいることが不快であるように、背を向けて急いで煙草を深く吸いこんだ。吸い込む度に、フィルターが一定間隔ずつ減っていった。
ギュヒョンと自分の間には、壊せないほどの分厚い壁が存在していると俺はいつも思っていた。だが突然あの店から姿を消したジャンキーのことで、ギュヒョンが狂ったようにジャンキーに執着して、ジャンキーを自分の家に住ませるように手配したという噂を聞いた時は、むしろ安心した。
いつ死ぬかもわからないバカで、持っているものと言えば拳くらいしかない自分よりは、賢くて持っているものが多い理性的なギュヒョンのほうがジャンキーには似合っていた。しかし頭の悪い俺でも知っていることをジャンキーは知らないのだ。だからジャンキーは蛾のように美しい鱗粉をまき散らしながら、濡れた翼で火に飛び込んでいくのだ。どんな困難も恐れないバカみたいなヤツだ。だから俺はジャンキーを見る度に気の毒に思った。自分の居場所を見つけられずに彷徨っているざまがバカみたいだった。その上、チョ・ギュヒョンもチョ・ギュヒョンだ。この馬鹿みたいなやつは、あのチビをしっかりと捕まえておくこともできずに、溜息を吐くように煙草を吸っている。そして俺はあのチビが 身体中をこすりつけてくる度に、息が止まる。忌々しい関係だった。
「チョ・ギュヒョン」
背を向けたギュヒョンの背中が軽く動いた。やがて眉間にしわを寄せたまま、ギュヒョンはこちらを振り返った。久しぶりに対面したギュヒョンの疲れた瞳と、みすぼらしい出で立ちに俺は驚いた。
「何だ?」
鋭い声が踊り場に響いた。神経を尖らせた刃が真っ赤な舌を出しながら、さくさくとチョ・ギュヒョンの心をすり減らしているようだった。
「今日は――仕事はないのか?」
これと言った言葉が見つからなくて、呼び出しがないことを尋ねると、ギュヒョンの頬が奇妙に歪んだ。一緒に暮らすうちに似てきたのか、ギュヒョンの微笑みは生気のないジャンキーの笑顔と似ていた。
「キム・ヨンウン――。おまえはそんなに死にたいのか?」
「……」
「死にたいのか? 死ぬのがそんなにいいか? 死にたいか? 俺が本当にこのまま殺してやろうか? ああ?」
折れた煙草を手にしながら、ギュヒョンは大声をあげた。悲鳴のような声が繰り返し吐き出され、ギュヒョンの口から溢れ出た。ギュヒョンのくたびれた瞳に浮かんだ激しい嫉妬の目つきに、俺は口をつぐんだ。むかむかするものを吐き出すように声をあげるギュヒョンは、零れ落ちた前髪を神経質にかきあげながら背を向けた。背を向けたギュヒョンの曲がった背中が、こんなにも敗色が濃いはずがなかった。
「いつ煙草を変えたんだ?」
背を向けたギュヒョンの声が空しく踊り場に響いた。俺はふと手に握りしめた煙草を見下ろした。それはフィリップ・モリスだった。俺はそんな海外の煙草なんて吸わない――。笑えることに俺は、ジャンキーの煙草を握りしめてきたのだった。
*
あの頃、フィリップ・モリスが韓国で販売されなくなった。酷いヘビースモーカーだった僕は指先まで震えるほど激しい禁断症状になりながらも、別の煙草は吸えなかった。いわゆる「作業」が終ってベッドのヘッドボードにもたれ、赤黒く染み込む照明の上を染める他人の見慣れぬ煙草の匂いを嗅ぐ度に、僕はフィリップ・モリスが鼻先を掠める酷い匂いと、吸うと肺の深くに膨らむような奇妙な感じを思い出した。それだけだった。僕はフィリップ・モリスが恋しいわけではなかった。皮膚病にかかったネズミのように一日中ぶるぶる震えても、砂をいっぱいに呑み込んだように口が乾いても、僕はフィリップ・モリスが恋しくなんかなかった。ただ――時々思い出すだけだった。
ギュヒョンはフィリップ・モリスを吸っていた。ギュヒョンの初印象はそれだった。ホールの入口に立っていたギュヒョン初めて見たとき、僕はギュヒョンが背の高い人だと思い、アルマーニのブラックスーツが身体にくっついているように似合っていると思った。正しくて、気高い動線を持っていて、綺麗な顔をしていると思った。そしてホールに立っているギュヒョンの前を、危うい足取りで通り過ぎたとき――。僕は、僕が喪失した片鱗の中にあるフィリップ・モリスの匂いを嗅いだ。
瞬間、肺深くに拘束し、抑えつけていた自分でも知らない感情が潮が満ちるように逆流して僕を襲った。やがて喉に張り付いていた自虐的な感情に抑圧された僕は大理石の床にがっくりと倒れた。身体をうずくまり、麻薬中毒者のように身体を震わせながら、発作を起こしているようだった。そしてギュヒョンは僕を 振り返ったのだ。自分の長い影の後ろにうずくまって座り、精神病者のように痙攣した僕を、ギュヒョンは抱きしめた。うずくまった身体の上に襲う鮮やかなフィリップ・モリスの香りに、目の内側から湧きあがる涙を僕は覚えている。本当はすごく恋しかったのだ。
ギュヒョンによってマンションに移された日、マンションのテーブルの上にはフィリップ・モリスが散らばっていた。ギュヒョンのものだったが、僕のために用意したものであるかのように、当然のように煙草をくわえた。
「それ、今はもう売ってないんだ」
「知ってる。僕も吸ってたから」
「苦労して日本から手に入れた珍しいものなのに、そんなに手当たり次第に吸ったらだめじゃないか」
断りもなく図々しく煙草をくわえる僕を見るギュヒョンの眉間にしわが寄ったけれど、僕は知らないふりをしてフィルターを噛んだ。久しぶりに肺に広がるフィリップ・モリスのほろ苦さが耐えられなくて懐かしむように。
「これ以外は吸えないんだ」
異質的に綺麗な空気で満たされていたマンションが、僕が吐き出した フィリップ・モリスで壊れていった。ようやく落ち着いた気がした。煙が淡く広がり、また浅くなる中を見ながら、僕は安楽に酔っていった。
「フィリップ・モリス以外吸えない?」
「うん、別のは吸えないんだ。吸えなくて死にそうだったけど、違う煙草はなぜか口に合わなくて」
「確かにフィリップ・モリスはクセになる味だからな」
煙を吐き出す度に、僕はギュヒョンの質問に答えた。初めて交わす会話にしては、柔らかく流れていくリズムが良かったらしい。煙草をおいしく吸う僕をしばらくじっと見ていたギュヒョンは、リビングの片隅に立った飾り棚を開けた。中に入っていたフィリップ・モリスを 何箱か出しながら、ギュヒョンは「吸いたいときに吸え」と言った。高価なもののはずなのに少しも惜しまない、爽やかな姿だった。
あの頃、国内で発売されなくなったフィリップ・モリスを購入するには、日本から輸入するしかなかった。ギュヒョンは規則的な主義で、一定の量の煙草を購入していたらしい。きっちり自分の分だけ。そこに喫煙者がひとり増えたから、煙草が足りなかったのは明らかだった。
僕は知らなかったが、時期が来るまで僕くらいヘビースモーカーだったギュヒョンは禁煙した。僕のために――。
ギュヒョンと僕の関係はいつもそうだった。ギュヒョンはいつも持っているものを惜しみなく与え、僕は彼がくれる全てのものを、それが当たり前のように自然に受け取った。もっと欲しい物をせがんで、彼は彼があげられるすべての物を僕にくれた。僕は彼をゆっくりと搾り取っていった。そしてついには彼が持っていないものまで欲しくなった――。
今日は帰りが少し遅くなってしまった。煙草を吸うと出て行ってしまったカンインが帰ってこなかったせいだ。帰ってくるのを待って、顔だけ見ていこうと思ったのが、うっかり眠ってしまった。起きた時には事務室はすっかり誰もいなくなっていた。一日が終わらないようなほろ苦い気分を感じながら、時計を見たとき、遅くなり過ぎたということに気づいた。ギュヒョンはいつもきっかり定時退社するから、ソンミンはギュヒョンが到着する前にマンションにいなければならないのだ。半日、家に閉じこもっていたように装って、煙草をたくさん吸いながら――。
家にいなかったことを知られたくないソンミンの速い足音が廊下に響いた。
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ボタンを押して、玄関に入ったとき、眩しく網膜を刺す光にソンミンは目を細めた。明かりがついたリビングは、既にギュヒョンが帰ってきているということを語っていた。
ギュヒョンはリビングの真ん中のソファに座り、本を読んでいた。玄関のドアが閉まる音と、できるだけ音を殺したソンミンの足音を聞きながら、ギュヒョンは振り向かなかった。ソンミンは不吉な予感に喉が乾いた。
これからはどこかへ出かけるときは俺に言ってくれないか――。
ギュヒョンの言葉が思い浮かんだ。緊迫した表情と辛い時間が隠れた視線を、ソンミンは完全に無視したのだ。そして、ソンミンがギュヒョンの言いつけを守らないということを、ギュヒョンにわからせてしまう。
「おかえり」
「うん……」
振り向かずに声をかけるギュヒョンの後頭部にソンミンは答えた。リビングに響く声は、普段と変わらず落ち着いて沈んでいた。淡々と流れてくる声にソンミンは内心安堵した。
ギュヒョン、怒ってないんだ。まあ、今まで怒ったことなんてないんだけど――。
ソンミンはいつも不安だった。ギュヒョンはいつも危険水位に到達した器いっぱいに揺れる水で、ソンミンは危ういコップをもてあそぶ悪い子供だったからだ。
「どこに行っていた?」
「ちょっと用事があって……」
リビングに入ったソンミンは癖のように煙草に火をつけた。カンインがソンミンの煙草を持っていってしまったから、カンインの煙草を持ってきた。アリラン。彼らしい無情な選択だ。ソンミンはフィルターを深く吸い、煙を吐き出しながらリビングを横切った。
「煙草、変えたのか?」
「ああ、うん。全部吸っちゃって」
「……誰かが持っていったんじゃなくて?」
トーンの高低はなかったが、鋭く刃を研いだギュヒョンの言葉にソンミンの足音が止まった。ギュヒョンは相変わらず視線を本に向けたままだった。
「違う煙草は吸えないっていったのに」
「……」
「今はくわえられるのか?」
ギュヒョンがゆっくりと本を閉じた。それと同時にあげた視線がソンミンの身体にくっついてきた。上から下まで隅から隅まで舐めるような冷やかな視線。ギュヒョンが今までに送ってきた暖かい視線とは全く違う、初めて会ったときの印象に似た、べたついた沼のように冷たい視線に、ソンミンの身体が固まった。言い訳をなくした唇は、死んだ煙を吐き出した。
「それに……男のアレもよくくわえるらしいな」
「ギュヒョン――!!」
その瞬間、ギュヒョンが読んでいた本を投げつけた。本は正確にソンミンのそばを掠めて壁にぶつかり、ものすごい音を立てて床に落ちた。真面目なギュヒョンの暴力的な行動に驚き、ソンミンはその場所を動けなかった。
そんな軽薄な言葉は初めてだった。いつでも教科書に載っているようなきちんとした言葉を使っていたギュヒョンの唇が汚れた。打ち込まれた釘のように動けないソンミンの前に、ギュヒョンがゆっくりと近づいてきた。今まで見たことのないような、ぞっとするようなギュヒョンの目つきにソンミンの背筋は冷や汗で濡れた。ギュヒョンがまだ煙草の箱を握りしめているソンミンの手首を掴み捻ると、ソンミンの唇から悲鳴が洩れた。
「やめて……」
小さく震える呼吸をものともせずに、ギュヒョンはソンミンの手首を無理に折り曲げた。手首を砕くギュヒョンの暴力に、ソンミンは叫んだ。
「ッ!!」
ギュヒョンは笑いながら手に力を入れた。何かがプツリと切れる音と同時に、ソンミンの手首は力なく折れた。神経を集中しても指先一本もたてることができない。酷い苦痛がソンミンの身体中に走った。折れた手首を握りしめたまま、床にへたり込んだソンミンの前でギュヒョンが視線を留めた。きちんとした動線を持った冷ややかで長い指がソンミンの眩しい裸足を撫でた。ゆっくりと、大切なものに触れるように。そして突然、やせ細ったソンミンの足首をぎゅっと掴んだ。ギュヒョンは、枯れ枝みたいに細いソンミンの足首を片手で握り力を入れた。
「本当はどこにも行けないように、おまえの足を壊してしまいたかった……」
苦痛に震えるンミンの視線がギュヒョンを見た。ギュヒョンの瞳には、これ以上温もりは存在しなかった。もちろん、涼しさも存在しなかった。心深い場所に抑制されていた欲望が、ずっと押さえつけられてきた恨みと入り混じって複雑な色を作り出していた。敢えて色に例えるならば灰色を湛えたギュヒョンの瞳に、ソンミンの心臓は冷たく冷めていった。本音が籠った低い声に、猛獣に捕われたようなソンミンの身体がぶるぶると震えだした。
ソンミンの裸足を撫でる指がゆっくりと這いあがり、冷や汗に濡れたソンミンの髪をぎゅっと掴んだ。頭を後ろに反らされ、光を受けたソンミンの顎が青白く光った。薄い肌の下で拡張した血管が、青々しく震えた。
「おまえは自分が誰のものかわかっていないようだな。おまえは、自分の身体が自分のものだとでも思っているのか?」
「……ギュヒョン」
「おまえは俺が買ったんだ。俺が金を出しておまえを買ったんだ! 大人しくしているから、ただのパトロンに見えたか?」
ギュヒョンが怒鳴り散らした。結局、爆発したのだ。ギュヒョンの広い心にも限界が存在したのだ。危うく揺れていた表面張力を超えて、感情の水が溢れだしたのだ。理性では制御できないほど激しい圧力で零れ落ちた。

何よりも大切に思ってやろうとしたのに、おまえが俺を無視するから。すべてを捧げると言ったのに、俺がやれないものまでおまえが望んでやまないから――。
生まれて初めて経験した苦々しい敗北感と喪失感が、毒薬のようにギュヒョンのくたびれた心身に広がっていった。毒薬が混ざり、毒気になり、毒気が混ざって狂気になった。だんだん濃度が濃くなっていくギュヒョンの瞳は、結局真黒に蒸発してしまった。
ソンミンは脈が無くぐったりした手首を掴んで、ぶるぶる震えているだけだった。身分をわきまえなければならないということに、もっと早く気づかなければならなかったのだ。その冷やかな瞳の裏側にあるものは、尋常じゃない狂気だということに、早く気づかなければならなかった。後悔はいつも、いっぺんに押し寄せてくる。それまで自分が立っていた安全な大地を突然失った足が、果てしない奈落へと落ちていく。
ギュヒョンはソンミンの長い髪を掴んだまま、苦痛に呻き声をあげる紙切れみたいな身体をずるずると引きずっていった。あれほど大切にしてきた綺麗な身体が傷つくことにも構わず、ギュヒョンはソンミンをベッドに放り出した。これから起こることを直感したように、ソンミンの身体が震えた。
「ギュヒョン……」
最後に残ったわずかな理性に訴えかけるように、たどたどしく小さく響く声。
――今さら呼んだところで意味はない。俺が静かに血を吐きながらおまえを呼んでいたたくさんの時間、おまえは俺を完全に無視してきたんだ。もう俺には、おまえを振り返る余裕なんて残っていないよ、ソンミン。
ギュヒョンはベッドに放り出されたソンミンの肩を抑えつけ、荒々しい口づけをはじめた。抵抗なんてみすぼらしかった。虚弱な身体はギュヒョンの腕力の前に、空しくへたばった。受け入れないようにぎゅっと閉じた唇も、ギュヒョンが片手で顎を割るように力を入れると、あっけなく開いた。今までギュヒョンと交わしてきた甘いキスではなかった。それはあくどい暴力だった。ギュヒョンは暴風のように欲情をむさぼりながら、子供みたいに小さくて赤いソンミンの舌を荒く噛んだ。敢えて血を見たがるように、唇が宙で絡んだ。ソンミンは、ギュヒョンの唾液をほろ苦く感じた。フィリップ・モリスのように――。
「んっ……」
生臭い血がソンミンの口に広がった。ソンミンの抵抗で、ギュヒョンの唇もすっかり噛まれていた。生臭い血の味がして、ギュヒョンは唇を離し、手の甲で口を拭った。片眉が嘲笑うように動いた。
その隙にソンミンは、ギュヒョンの下からベッドの外に逃げようとあがいた。下半身をギュヒョンに固定されながら、抜けだそうともがく姿がこっけいだった。あまりにもこっけいで耐えられなかった。ギュヒョンは低く肩を落としながら嘲笑った。
――なぜ俺から逃げようとする?
ギュヒョンは反抗することしか知らない憎たらしいソンミンの両手首を片手で掴み、ソンミンの頭の上に固定した。ギュヒョンの頑丈な手の中で、ソンミンの手首に刻まれたたくさんの傷が捻られた。
「やめて……ギュヒョン……」
ソンミンの真っ白な長袖のシャツが、未だ癒えることのない傷から流れ出た血で瞬く間に染まっていった。それと同時に、部屋の中が生臭い悦楽に堕ちたように赤く滲んだ。
ギュヒョンの動きが止まった。
あの日、絶え間なく耳を刺激した水音と視界を満たした生臭い血が手についたように生々しかった。ソンミンのガラス玉のような瞳に溜まった涙が、すうっと 真っ白な顔に沿って流れ落ちた。
その瞬間、ギュヒョンは直視した。獣のように息を荒げている自分を。無意味で虚しい息を吐き出すために、自分の大切な人を力ずくで抑えつけて喰らおうとする獣のような自分を。
ギュヒョンの手からするりと力が抜けていった。ギュヒョンの身体が、ソンミンの上からどいた。ソンミンの上から退いた長い影が、倒れそうになりながら、ゆらゆらと揺れていた。
「うっ……うぅっ……」
苦痛と衝撃で混乱したソンミンの泣き声が、小さな口から溢れ出た。それと同時にギュヒョンも似たような呻き声を吐き出した。
「おまえを思うと一日も休まる日がない。おまえが突然いなくなってしまったら俺はなす術がないんだ。俺は……どうすればおまえを捕まえられる? ……おまえが答えてくれなくて恨めしくても、俺にはできることが何もない……」
「ギュヒョン……」
「……ジャンキー……おまえはどうしてそんなに悪いやつなんだ……」
最後の言葉は、まるで独り言のように零れた。ギュヒョンは、揺れるように部屋を出て行った。そしてソンミンはまた一人きりで残された。ギュヒョンはまた、自分の大切な安息をソンミンに譲った。消せない傷跡のように、罪悪感だけをひっそりと自分の背中に背負ったまま――。










